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魚の現象学

最近毎日散歩をするようになって、家から15分ほどの場所でも知らない地形があるもんだと発見があるから、軽いロックダウン生活も悪くないもんだと感じている。知らなかった土地も面白いのだが、今回は地形や地域の話ではなく、見慣れた川での話。

習慣的地形

家から5分ほど歩くと川が流れている。大栗川という名前なのだが、川に面して小学校が建っており、下流に少し歩けば通っていた中学校も川沿いにある。日本にいなかった時期を除いて6年ほどの間毎日のように見ていた川なので、少年期の身体性の一部となり馴染んだ光景である。ここ数年で工事があり遊歩スペースが確保されたりしたが、川の流れは変わっていない。

知らない土地への関心と同様に、見慣れていたはずの川への洞察が変化し、泳いでいる魚を眺めていても全く飽きないことに気が付いた。少年期に身体性の一部となってしまっていた川の光景は、漠たるイメージによって捉えられていた。そこに鯉が泳いでいるのは当たり前だし、ろう石が転がっていてコンクリートに絵を描けるのも当たり前で、川の存在自体が習慣化されていた。だから魚の行動を眺めることも大してしてこなかったのだが、今になって不思議なものだと思うようになった。

常に流されている魚

今回気になったのは、上流に向かって泳ぐ行動。大栗川では見渡す限り一番大きな魚は鯉で、その鯉が川の中のある地点から動かないことに気づいた。ただ浮いていれば下流に流されてしまうはずなのだが、その一点にゆらゆらとわずかに身体を動かしながら留まっている。つまり流れに逆らうように尾ひれを動かしたりしていることだった。

詳しく調べたわけではないが、河原の魚の行動としては珍しいものではなく、一つは餌を取りやすいという生存の知恵が働いているらしい。下流へ逃げていく餌を上流から追うよりも楽なことは容易に理解できる。しかしその行動にどのような理由があるにせよ、人の普段の行動とは全く異なることは確かである。

人も常識と考えられているような生き方をしていれば社会の渦に流されて飲み込まれてしまうこともあるかもしれないが、身体性を考えた時には、立ち止まっている状態でどこかに流されるようなことはない。その場に立つために歩き続けるという倒錯が生じる。

魚の場合は、同じ空間に留まるためには、絶えず反逆していく必要があるのだ。しかしこの同じ空間ということそのものが錯誤かもしれない。上がった凧に定位置などあるだろうか。あるとすればそれが持ち出す前と上がった後、すなわち押入れの中なのではないだろうか。それを除けば、上がっている凧は常に風の赴く位置に晒される。操る人が糸を引くから、抵抗させるから、ある瞬間に止まったりすることができる。

メルロー=ポンティの習慣的身体

突然だが、メルロー=ポンティは『知覚の現象学』で、幻影肢から習慣的身体を論じた。幻影肢とは、体の一部を切断されてしまったにも関わらず、切断された部分があるかのように感じられることで、痛みが生じる場合がある。それを日常に敷衍すると、例えば家の中で、われわれは階段の段数を数えたりはしないが段数を気にしなくてもフロアに着くタイミングで足を挫いたりしない。部屋の電気の場所を探さなくても暗い中で電気を点けられる。鉛筆で書くためにその鉛筆の持ち方を考えたりはしない。日常の身体には非人称的な知性が備わっており、それは習慣によって獲得されるものなのであり、通常意識には上ってこない。

これは現勢的身体、つまり意識的に身体へと関与するもので、動かす主体があること、習慣的身体の非人称に対し人称的とされることとは区別される。

魚の行為

さて、魚が川の流れに逆行していくことから魚の身体性を考えようというのが今回のテーマだった。流れ行くものの中に身を置く身体性とはどのような経験なのか。

上述したメルロー=ポンティの習慣的身体の議論に照らし合わせるとすれば、「泳ぐ」という行為そのものがすでに習慣化されているといえないだろうか。つまり、前意識的に「泳ぐ」という行為に至っている。人間に置き換えてみれば、夢遊病のように、意識せずに「歩く」ということに等しいといえる。

しかし人間は意識的に行動する時の現勢的身体というものを持っているからこそ、前意識的な習慣的身体の存在を規定することが可能である。ここで新たな疑問が浮かぶ。魚にとっての「意識的」とはどのようなことか。本当にそれが前意識的だといえるのだろうか。

魚と現象学

これまでの魚に関する神経生理学的な研究では、痛みや感情のようなものがあることが示されているが、それらは反射という水準でしかない。ベルクソンは『物質と記憶』において、知覚することは刺激が脳を通って特定の物質に全反射しているだけであり、その回路の複雑さが異なるだけで原理的には反射も主体的行動も変わりないという。しかしこの複雑さこそが選択性を生み、行動への意識に関わる。魚にこの複雑さというものはないのだろうか。

現状この問いについては答えることができない。そもそも有る/無いと二元論的に答えを出そうとするのはそれ自体危険なので控えておこう。

ではどのように捉えるべきか。限られた情報・観察から、身体的な視点を持ち出す観察者との関係として論じるべきなのではないか。オブジェクト指向存在論のように事物を独立したものとして見ようとすると、どうしても生物学や神経学に頼らなければならなくなる。それとは別の方法で、フッサールのいう「感情移入」、すなわち他者の現れを読み換える形で魚の体験を記述できないだろうか。

魚の習慣的身体

魚がその場に留まっているところを観察してみると、水草のような川に生えている植物を食べていたり、ただ浮いているように見えたりする。流れてくる獲物のようなものを食べる時もある。

つまり何かの行為を達成するためにその地点に留まる必要があり、その地点に留まるために泳ぐという行為をしなければならない。

この時、行為の達成のための泳ぐということであれば、ただ人が何かを取りに行くために歩くということと同様である。であれば、この次元においては人間と同様の習慣的身体を持っているということになる。

行為達成のための泳ぎは、どう泳ぐかということが意識されない(たぶん)。行為達成のための人間の歩きも、どう歩くかということは意識されないように。

魚の習慣的身体はもう一歩深い所に、別の次元として存在している身体がある。立っている間にどこかへ行ってしまうということがあまりない人間と比べ、魚にはむしろどこかに立っているということの方がない。ここから、空間の中に身を置き、自分が固有の存在として存在していることに関わる感覚が全く別物だと捉えねばならない。

人は体性感覚によって空間の中に位置する存在であることを意識することができるが、魚にはそれができない。絶えず流動している。身体を働かせなければ体性感覚による存在の感覚がない。というよりも空間的位置によって自分を存在付けることができないのではないか。

周りの環境も、水の流れによって絶えず変化しているが、その変化の仕方は人間には想像もできないほどダイナミックなものだろう。そうすると、蓄えることはおろか、必然的に反射を研ぎ澄まさねば生きていくことができなくなる。流動的なものの中でそのつどそのつど環境を把握する必要があるからだ。


魚には人間とは別次元の身体があることを確認した上で、このことを踏まえて次回はもう少し人間の方について考えてみたいと思う。

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