レヴィ=ストロース『構造・神話・労働』
声のある本だった。本書は講演・対談集だ。もとが声で語られたものを文字に起こした形式である。だから、音声的に感じられても不思議はない。
ただ、わたしが感じたのは、音ではなく、声なのだ。身体器官としての声。文体や筆跡と似たような、レヴィ=ストロースの個人情報をそなえたものしての、声。
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「構造」と「神話」と「労働」について語っている。タイトルの通りだ。しかし、「構造についての話」や「神話についての話」を通して、別のことが語られているような感じを受けた。
いや、少し違う。「構造についての話」は、なにか別のものの比喩ではない。それはそれで、しっかりと話の主旨になっている。ただ、その語り口に、話題そのものからはみ出るものがある。余剰がある。そう感じた。
構造主義は誤解されてきた、と著者は言う。それは哲学ではないのだ、と。そして、「わたしたちにとって構造主義とは、極端に慎ましい手仕事のようなもの」という描写がある。この「手仕事」という比喩に、余剰を感じる。声がある。
たとえば、「構造」について、「変換を行っても普遍の属性を示す諸要素と、その諸要素間の関係の総体」という説明がある。予備知識なしにこれだけを読んで、なんのことかわかる人はいないだろう。
定義の言葉遣いには、声の手触りがない。語り口がないのだ。論理の言葉遣いは、普遍化・抽象化に耐える、無駄を削ぎ落とした硬質な語法に行きつく。誤解なく、意味が一義的に定まるように。法律の条文や、契約書など、日常的な言葉の感覚では読めない。専用のリーダーを起動し、解読する必要がある。
「わたしたちにとって構造主義とは、極端に慎ましい手仕事のようなもの」という文章は、いかにも日常的だ。論証ではなく、比喩による連想で語る。やわらかい。むしろ軽い。「わたしたちにとって」という個人の感覚は、論理の語法ではカットされる余剰だ。論理的でない余剰が、軽さを生む。文章に声がのる。
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レヴィ=ストロースにとって、構造主義は「手仕事のようなもの」だという。つまり、それは知的なだけではなく、身体的な営みなのだ。知は普遍の真理を目指すが、身体はひとつひとつ個別である。手のかたち、動きの癖には個人差がある。
本書のタイトルにもある、「労働」について語った箇所だ。ここで著者が「日本の伝統的技術」として挙げている杜氏、刀鍛冶はともに、手仕事をよくする職人である。
伝説によると、ゴディバ夫人はロザリオのビーズを指で数えながら祈ったという。祈りを復唱する回数が少なくなりすぎないように、と。彼女にとって、祈る、という精神的な修練は、手指のはたらきと連動していた。
仏教における数珠も、同じはたらきをもつ。数える珠、と書いて数珠だ。念仏の回数を手に数えさせ、精神を祈りに集中させるためのツール。
著者が「聖なる感情」、「ほとんど宗教的な感情」をみいだした杜氏、刀鍛冶の労働は、手仕事だ。いわば、身体活動を伴う祈り。祈りとしての労働。それは、僧侶や修道女が、手でビーズを数えながら祈る姿と重なってみえる。おそらく、熟練の刀鍛冶も、高僧も、個別の癖を残した手をしている。
レヴィ=ストロースがみずからの仕事(構造主義的人類学)に、「聖なる感情」を抱いていたか、わたしにはわからない。わからないが、「構造主義」を「極端につつましい手仕事」に喩える身振りには、敬虔さに似たものがあると、わたしは思う。声に、そういう響きがある。
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労働の産業化は、作業の規格化や分業の洗練、オートメーションの導入によって、労働者をさまざまな手仕事から解放した。穀物を手回しの臼で挽く、動物の皮を鞣す、火を熾す。こうした作業はテクノロジーによって更新された。
使われない技能は失われる。このとき、その技術を発揮する時間、手仕事を生きている時間も同時に失われる。
レヴィ=ストロースのいう、日本における「労働を通じ」た「神との接触」は、スマート化の時代にも保たれるだろうか。手仕事の時間がすべてスマート機械に代替されたとき、労働が祈りと重なることはないと、わたしは思う。
テクノロジーによって、手が作業から解放されればされるほど、手仕事を通じた聖なるものとの接触も失われる。では、空いた手はいま、何をしているのか?
何年か前、アンデシュ・ハンセンの『スマホ脳』という本が話題になった。現代人は、スマホ依存症に陥っていること、その弊害について書かれた本だ。空いた手はいま、スマートフォンのスクリーンをタッチしている。
したいからするのではなく、せずにはいられない。というのが依存症だ。誰かと居ても数分おきに通知をチェックしてしまう、Twitter(現X)のスクロールを止められない。強迫的な反復。ビーズを数えながら復唱される念仏の反復とは、何か違っている。
そのとき、人は失われた手仕事の代償をもとめているのかもしれない。赤ん坊が、母親の乳首の代わりに、自分の指をしゃぶるみたいに。それで「接触」や「繋がり」が回復されることを期待して。
ところで、数珠を指で数える仕種は、その動き自体が敬虔なのか。そうではない。念仏を唱える、という文脈におかれたとき、初めて数える指は祈りの手になる。その意味では、パソコンのキーボードや、スマーフォンの画面に触れる指もまた、手仕事への可能性に開かれているはずだ。
けれどいまのところ、スマホの画面を弾く指が、祈りの手にみえたことはない。SNSのページを際限なく更新する指先に、敬虔さを感じない。なぜか、と問われても、わからないけれど。レヴィ=ストロースもきっと、感じないのではないだろうか。
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つらつらと、思い浮かんだことを述べた。「よし、ちょっと考えてみよう」と、いうのではなく、言葉は自然にでてきた。ほんとうに「浮かんだ」という感じで。
本書のレヴィ=ストロースの言葉には、読み手を説得してやろう、といった気配がない。お前はどう答えるのか、と尋問してくる気配もない。だから、こちらも警戒が緩む。読みながら身体が脱力していく。言葉が滑らかに伝わってくる。
語りかけてくる本なのだ。余剰によって。その、語りかける声に触発されて、わたしは上に述べたようなことを考え、言葉にしたのだと思う。説得されたのでもなく、問いに答えたのでもない。なにしろ「わからない」で終わっている。構造主義について読んだ感想としては、かなり間の抜けたものになっているだろう。
ただ、声に反応して、身体が動いた。ボケに、つい反射でツッコミを入れてしまう。音楽を聴いていて、気づいたら身体が揺れている。誰かに微笑みかけられて、自分も笑ってしまう。それらと同じ感覚で、声に反応して書いてしまった。
そういうわけで、興味深い話がたくさん載っている本だけど、声のことがなにより印象深い。声のある本だった。