リチャード・ブローティガン『ここに素敵なものがある』
ブローティガンの詩はいつもソフトな響きを持っている。ブローティガンは優しい感じがする。森のようなおおらかかというより、控えめな性格の少年の姿が思い浮かぶような、そういう種類の優しさを感じる。
訳者の中上哲夫さんのあとがきに、
とある。「low-keyed」は「声の調子が低い=地味で控えめな」というふうな言葉だけど、この評文はとても僕の印象に近い。
ブローティガンの詩は情熱的というよりもチルな感じがする。その落ち着きは、経験豊富な達観した冷静さというより、熱くならずにぼそっとつぶやいているような、そういうロウキーな感じがするのだ。
「モーニング・コーヒーの真横で」と題された詩を見てみよう。
これは誰かに向けて声高に唱えられている詩では決してない。ここにある声は、書き手自身に向けられている。けれどそれも強く自問するのではなく、非常にソフトな、提案にも似た問いの調子を持っている。
自問というより独り言を漏らしているような、そんなソフトさがある。誰かに問いかけることは、その人への関心の現れでもあるけれど、問いは時に尋問のような調子を帯びることもある。質問と追及は紙一重のものではないだろうか。
ブローティガンの言葉にはそうした追及の響きはまるでない。かれの自問はただ、問いの形式を持った命題を空中にそっと置くようにつぶやいて、自分でそれを眺めているだけ、みたいな感じがする。
表題作はこんなふうになっている。
書き手にとって「きみ」がとても大きな存在だとわかる。それでも、この詩は「きみ」に向けて強く発された声という感じはしない。というか、ほとんど相手の目も見ずにささやかれているような感じがする。
内容からして、これは自己完結的な詩ではない。ここでは「ぼく」にとって「きみ」が不可欠であるということが語られているわけだから。けれど、このテクストのもつ声は、どこか自己完結的というか、自律的な感じがある。
それは非常にオープンマインドな感じだ。自己の殻に閉じこもるのとは正反対の仕方で、ここにある声は自らを外へ開きながら自己充足している。不安のある人、自信のない人ほど、声高に自己の能力を喧伝しなくてはならない。ちょうどそれを反転したような、わざわざ大きな声を出す必要はない、といったクールな慎ましさがある。
もう一度内容を見てみると、ここにはとてもロマンチックな言葉がある。とても切実な告白の色合いを含んでいる。それでいて、声の調子はとても慎ましい。向かい合って語りかけるというより、隣でつぶやいているような。
ブローティガンはナーヴァスなことを書いた詩にすら、どこかリラックスした空気を漂わせる。
この詩は他者の声を拒絶している。けれど、その拒絶はどこか、「靴の中に小石が入ってて、ちょっと嫌なんだ」と言っているような、そういう感じがする。無関心とも違う。「小石なんてどうでもいい」というんじゃなくて、「ここだけの話、靴の中に入った小石って嫌いなんだよ、悪いけどさ」というような感じなのだ。あくまでもlow-keyな拒否の声。
僕はブローティガンから感じる優しさは、こんな感じの優しさだ。ソフトで、監視するのではなく控えめに見守っているような、激励するのではなくささやかな声で率直に応答するような優しさだ。こういう優しさって、最近はけっこう貴重なもののような気がする。