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千葉雅也『アメリカ紀行』

この本には、即興演奏のような軽やかさがある。たとえば次の箇所。

他人の家に間借りするなんて、ストレスがひどくて普段の僕ならやらない。その殻を破ってみる。家主は中学校の教諭をしており、カリブ海の島国トリニダード・トバゴからの移民だという。タバコという言葉のオリジンはこの国だ。

話はこのあと、タバコとは全然関係ない方へと向かう。即興とはライブ感である。雑談の途中で本筋と関係のない、しかし何か心楽しい一言を思いつきで話すような感じ。

この余談、連想された言葉がそのまま書かれたような余剰の感じ。それが文章の滑りをよくしているように思う。特に意味のない相槌やジョークが会話をスムーズにまわすのと似ている。

潤滑油としてのジョークも過剰になればかえって会話に軋みがでる。だからその加減が肝心なわけだけれど、この本の即興加減は実に軽妙で、何度読んでも飽きない。

こうした言葉の芸(というか)は、千葉さんが「加減」ということについて感度の高い人だからではないか、と思ったりする。

関係することが不要だと言いたいのではない。我々はもちろん関係するし、関係が必要なのだけれども、互いに立ち入らない部分もある、つまり、部分的に無関係でもあるということが、互いの差異を尊重することに必要だという考えなんです、と説明した。

関係と無関係の、加減の話がされている。程度問題。千葉さんの他の本には「仮固定」や「中断」というワードもあるし、『動きすぎてはいけない』という本もタイトルから程度や加減を扱っている。

中途半端というのは気持ちが悪いし、あるいは恰好悪かったりする。が、中途半端さに耐えることがいかに大事が、ということを年々考えるようになった。極論でしか物事を考えられないようになると、何かと困ったことになる。

そういう半端なところで「ああでもない、こうでもない」と踏ん張っていると、ときどきガサツな人が現れて「はっきりしろよ」とか「こっちの方が良いに決まってるだろ」と言ってきて悲しいのだが、読んでいると千葉さんも同じような目に遭っていた。

ガサツな人ってどこにでもいるのである。がんばろう。

カフェでクシャミをしたら Bless you! と言われた。Thank you と返さなければならないが、はにかんでしまう。You という異物が引っかかり続ける。

英語における、二人称 you を主語にたてることへの引っかかり。自分は一度も感じたことのない感覚。何も考えず、何も引っかからず、英語はそういうもの、と思って平気で you を主語にとる。

先ほど、他人様のことを「ガサツ」などと書いたけれど、自分もたいがい雑な手つき、鈍い感性で言葉を扱っているのである。すみません。

言葉の用いられかたに対する感度が高いということは、それに対しておこる反応(たとえば抵抗)がそれだけクリアだということでもある。ならば、外国語を覚えるときは、ある程度鈍感になってしまう、というのはひとつの近道かもしれない。

しかしこういう感想はちょっとプラクティカルに過ぎる気もする。自分の鈍感さを無意識に肯定しようとしているのだろうか。などということを気にしているうちは鈍感さが足りないぜ、と思いつつ開き直るのも気が進まない。半端。「はっきりしろよ」と言いたくなるのもわかる。

中途半端ついでの余談。カンファレンスの休憩中に、マルクス・ガブリエルと話したというエピソードがある。

そこでガブリエルが「近く『意味の論理』の日本語訳も出ますよ、と上機嫌に続けた」とあるのだが、そこを読んで昨年末に氏の『考えるという感覚/思考の意味』を買って積んだままになっているのを思い出した。

勿体ないので読もうと本棚から出したものの、今すぐ読む気分でもないので、とりあえず目につきやすい場所に置いた。これではただ部屋を散らかしただけである。

こういう中途半端さに耐えることにどんな意味があるのか、情けないだけではないのか、と誰かに問われたら苦笑いするしかない。

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