看板娘
カフェ、レストラン、はたまた美容室など、看板犬というものが活躍しているお店は数知れず。最近ではフクロウが店頭に鎮座してファンに取り囲まれている光景を目にすることもある。話題になりやすく客寄せの広告塔として良い働きをしてくれるようだ。人間の看板はというと男子よりは女子。往々にして看板娘ということになる。「あのラーメン屋には可愛い子がいる」とか「いつも行くコンビニのいつもの時間に行くとあの可愛い子がレジにいる」といった具合だ。食事や買い物の目的にプラスして別な楽しみが付随すれば多少なりとも店の人気や売上に変化が出るのかもしれない。
遠い昔、東京駅構内のカフェで短期のアルバイトをしていたとき、そこで働いてる先輩の女のコがまさに看板娘と呼ぶにふさわしいムスメさんだった。ひとことで言ってしまえばとにかく笑顔が途方もなく可愛いのだ。同性からみても鼻につくどころかちょっとトキめいてしまうぐらいの和やかでキラキラした微笑み。だからといってただニコニコしているだけのお人形さんタイプではなく、仕事もよく出来、後輩への指導も優しく丁寧、お客への気配りも細やかだ。老若男女あらゆる層のお客から人気があり可愛がられていた。今となっては名前も思い出せないが看板娘といってすぐさま彼女を思い出すほど強く印象に残っている。さらに遠い昔に遡ること300年、江戸の街ではスーパー看板娘がプロの花魁をも凌ぐ勢いで話題をさらっていた。
谷中の笠森稲荷境内にあった水茶屋「鍵屋」の店主の実娘で「笠森お仙」として後世に名を残すことになるお仙ちゃんだ。かねてより器量好しの子であったのが店を手伝うなり、あの店には可愛い子がいるという噂がどんどん拡がりお仙ちゃん見たさに遠方から来る客、日がな茶を飲んで居座るリピーターなんかで「鍵屋」は大繁盛したそうだ。それだけではなく当時の人気絵師であった鈴木春信が錦絵で描いた途端、人気は大爆発。渋谷の大型ビジョンに映し出されるかのごとく、芝居のモデルになるわ、お仙ちゃんグッズも販売されるわ、かくして素人アイドルの開祖となったのである。そうなると他の茶屋も「うちの店にも看板娘を!」とばかりにどの店もこぞって町中で可愛い子をスカウトするようになったそうだ。「あたし源さんの茶屋でバイトしないかって誘われちゃった」「えー!マジで!アンタもお仙ちゃんみたいにアイドルになっちゃうかもよ!」なんて町ムスメたちもはしゃいでいた、かどうかは与り知らぬこと。お仙ちゃんの後には浅草の楊枝屋「本柳屋のお藤」も出現。この二大町娘アイドル大ブレイクから20年後には更なる花盛り。世にうたわれし「寛政の三大美人」の登場だ。
浅草随身門脇の茶屋「難波屋おきた」、両国米沢町のせんべい屋「高島屋おひさ」、「芸者の冨本豊雛」。(※3人目が芝神明前の茶屋「菊本おはん」だという説もある。)
錦絵と当時の記録などを併せて美人の変遷を手繰ってみると元祖看板娘お仙は、華奢で小柄、あどけなさが残る初々しい清純派。次なる「寛政の三大美人」は凛とした芯のある美しさにプロポーション抜群でグラマラス。これが30年後の文政年間になると、退廃的で目つきも姿勢も悪い、それでいてゾクッとするような色気がある奔放なタイプの女性が人気を博したようだ。
美女は世につれ、世は美女につれ、その時々の流行り顔や、そもそも個人のお好みもあるだろうが癒やされるにしても元気をわけてもらうにしてもやっぱり優しげな笑顔が一番の効果効能。カフェに至っては大方が休憩をしに、一息つきに、リフレッシュしにいくのだから、ホっと和む笑顔を向けられる方がいいに決まっている。
そんなホッと一息できるはずのカフェですら昨今は何やら常に息を潜め、美味しいはずのコーヒーも一口飲んではマスクで口を覆い、もとよりお茶をいただける店に立ち寄る事すら気が咎める時の風。困った世の中になったもんで。そういえばお仙ちゃんが大人気だった1763年ごろは謎の疫病が流行して夥しい数の犠牲者が出たんだっけ。お互い世知辛い世の中を生き抜いてるじゃないの。何百年かしたら平成令和の三大美女としてゆきぽよたちの写真の方が今のハヤリヤマイの記録よりも大きく博物館に展示されたりするんだろうか。さて茶屋に寄って一息つこう。お仙ちゃん、お団子ひとつお願いね。振り向いたあなたの笑顔は今日もきっと輝いている。