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あの時もしあの選択をしていたら
今日も大学で、高齢者の方々からステキな言葉を教えていただいた。
Be a different. 人と違うように生きなさい。
やるかやらないかで迷ったら、とりあえずやってみる。やってみて違ったら辞めればいい。そうしないと自分の時間を無駄にしてしまうことになる。
どちらも今の私にはめちゃくちゃ響く言葉で、「人と違う選択でいいんだ」「迷ったらやっちゃっていいんだ」と、自分が今しようとしている選択に、少し自信を持つことができた。
こういう言葉こそ、豊富な人生経験をもつ高齢者から聞く方が、同世代から聞くよりきっと心に響く。というか同世代からは、こんな言葉を聞くことさえできないかもしれない。
当たり前だけど、自分の選択を信じることって難しくて、すぐ不安になってしまうから、人は人生の指針となるものを欲する。一つ一つの選択にはプレッシャーがかかるし、エネルギーが必要だ。「もう誰かに決めてほしい」とさえ思うことだってあるだろう。
今はマッチングアプリの普及により、知らない人といくらでも出会える時代になりつつある。しかし多すぎる選択肢は、人間の決断力を削ぐという研究もあり、選択肢が多すぎると、「もう昔みたいにお見合いでいいよ」と投げやりになって、選択すること自体を放棄したくなったりもする。
高齢者の方々のこれまでの人生のお話を聞いていると、「あの時もしあの選択をしていたら、どうなっていただろう」と、反実仮想されることがある。
「私はずっと仕事をしてきたけど、あの時主婦になってたらどうなってたのかなあ。」
「主人が仕事でアメリカに行くってなった時ついていかなかったけど、あの時一緒にアメリカに行ってたらどうなってたのかなあとかね、いろいろ思うけど。それでも今の選択でよかったのかなって、最終的には納得するようにするんだけどね。」
人生とは選択の連続であり、長い人生には分岐点が幾度か訪れる。
この大学に行くか、あの大学に行くか。
転職するか、続けるか。
この人と結婚するか、しないか。
その時の自分がこうしたい、あるいは正しいと思った方を二者択一でどちらか選んだ結果、選ばなかった方の未来は永遠に見えることはない。
「あの時もしあの選択をしていたら」と反実仮想することは、過去に選択しなかった道の先に広がる世界を空想することであり、その世界はどのようにでも、自由自在に思い描くことができる。
一見、そのように反実仮想することは、選択しなかった道と、選択した道の先にある「今」とをてんびんにかけることによって、後悔が生まれてしまうのではないかと思える。
だけどもしかすると、選択しなかった道の先に広がる世界を思い描くことが、「今」に納得するための手段になるのではないかと考えると、その空想は、「今」を含めて、自分の人生を受け入れるために行われることなのかもしれない。
仮にそうなのであれば、「今」という結果を生んだ自分の選択は、選択しなかった道の先に広がる世界を空想することによって正当化されるといえるため、結果的として、自分の選択による後悔は生まれない。つまり、“やらぬ後悔よりやる後悔” というのは、本当だということになる。
若い頃は特に先行きが不透明で、人生は数直線上に広がっているはずなのに、一寸先も見えない。
未来は見えないからこそ面白いけれど、見えないからこそ不安だ。
こうして若い頃に、高齢者の方々がこれまでの人生を振り返るお話を聞く機会があることは、「私がこの方と同じ70歳になった時、私は…」と、少し先の未来を生きる自分を想像するきっかけとなる。
高齢者もまた、希望に満ちた若者の話を聞いて、少し過去の自分を思い出して若返ったような気持ちになれる。
そして話し終わった後、なんだかみんなが少しほっとしている。そこに、多世代交流の本質があるような気がしている。
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