見出し画像

#02 自己紹介(2)〜出生から今に至るまで〜

どうも。三谷後期高齢者(23)です。
感情のままに書き殴ってみたところ、構成も文章もぐちゃぐちゃになってしまったのですが、直すのがめんどくさいのでこのまま投稿します。優しい心で読んでいただければと思います。

はじめに

今日は自己紹介part2として、僕の出生から今に至るまでをご紹介しようかなと。

自分の過去を振り返るというのは若干の恥ずかしさがあるのですが、それが逆に今の自分にとって良いかなと。休職中だし。

余談ですが、大体の就活経験者の方は自己分析とかいうやつで嫌でも自分の過去を振り返ったことがあると思います。ですが、当時の僕は「あんなもん真面目にやってるやつ感性まともじゃねえだろ」と思っていたのでやりませんでした。
実際あんなもんやらなくても外資系ITという世間的にはtierの高い企業に入ることができたけど。
とはいえですね、実際は自己分析をしなかったことをかなり後悔しているのですよ。
何故後悔しているかの詳細については、また今度投稿しようと思うのですが、簡潔にいえば、「世間からみた評価と自分から見た評価というのは異なる(今思えば当たり前)」ということです。

少し前置きが長くなりすぎたので、そろそろ始めます。

〜出生から今に至るまで〜

出生

一人っ子ミレニアムベイビーとして派手に生まれる。たしか3500gくらい。でけえ。

幼稚園

幼稚園に行くことが本当に嫌いで仕方なく、毎日入り口の前で1時間くらいごねてたらしい。友達も多かったし幼稚園も嫌いではなかったのだが、家にいることが好きすぎたとのこと。
社会不適合要素目覚めるの早すぎるだろ。

小学生

1年生の時から6年生の時までクラスの中心だったしめちゃくちゃモテてた。
小学生の頃が1番輝かしかったとかいうシャフテンプレ人生。
と言いつつも、5年生の時にイマつぶというTwitterみたいなsnsに出会ってしまい、ネットにのめり込んでしまったのもこの頃。
ちなみに初めてシコったのも小学5年生。あの時の感動は忘れられん。

中学生

人生初めての部活動は、テニス部に入部。
元々スクールで習っていたこともあり、入部即レギュラーだったのですが、先輩と顧問という強敵たちが怖すぎて入部3ヶ月で退部。
今思えば、ここで退部した経験がかなり人生を左右させることになったと思う。少しでも自分に合わない要素があるなら辞めればいいという感覚がここで付いてしまった感がある。
更に言えば、「気に食わないことは自分が変えるという変革性」ではなく、「めんどくさいことは自分が引けばいいという惰性」を身につけてしまったのもこの退部が原因だと思っている。

とはいえ、小学生の頃に引き続き、帰宅部にも関わらず友達はかなり多かった。
理由は簡単で、友達もみんな部活を辞めたからである。
どうやら人間というのは愚かで、部活から解放されて毎日ゲーセンに通っているハッピーライフ人間を見せつけられると、退部という決断を簡単に下すことができるらしい。
1人また1人と退部していき、学年の3分の1くらいが帰宅部になっていたのである。カスの負のスパイラルとはこのこと。

そして、この頃、人生で一番の出来事が起こる。
THEE MICHELLE GUN ELEPHANTとの出会いである。たまたま見ていたテレビで流れてきたガレージパンクソングに脳みそをぶっ叩かれ、ロックに目覚めたのである。
この衝動を機にロックにのめり込み、友達を誘ってバンドを組んだりしていた。
この頃にロックに教わった教訓は人生を豊かにしてくれた一方で、社会と馴染めない自分を確固たるものにしたと思っている。
毎日夜中までギターを弾いたり、音楽を聴いたりするのが幸せだったし、そのせいで日中の授業をひたすら寝ているのも反社会的でかっこいいと思っていた。

高校生

先述の通り、中学3年間は授業はひたすら寝て、夜中までギターを弾き散らかすという生活を送っていたのだが、なぜか進学校に合格できた。
この経験によって、最低限の努力で最大限の結果を出すことこそがスマートでカッコいいと認識するようになってしまった。

この認識の誤りにより、中学からレベルが上がり科目数も倍になった勉強について行ける訳もなく、1年後には学年ワースト2位になる。自分に驕っていた分だけ劣等感は増し、何をするにも楽しくなくなった。

そんな状態で学校に行きたいと思えるはずもなく、高2の夏には高校を退学してしまった。
厳密には、春からほぼ登校していなかったので出席日数が足らず、留年or退学で退学を選んだ。

16歳にしてほぼニート生活を送っていたのだが、漠然とした将来への不安や両親への申し訳なさから、10月頃には高卒を取る為にテキトーな通信高校に編入した。なお、このタイミングで童貞を卒業。感動しました。

とはいえ、僕が編入した通信高校は登校がほぼ0であった為、実質ただのニートのような生活を送っていた。また、当時は未成年でも入れるクラブが地元にあった為、入り浸っていた。
元々芸能関係の知り合いが多かったこともあり、良くないとされることに触れる機会が多く、とても刺激的な生活を送っていると感じていた。進学校に通っている人達には出来ない生活、世間では大人にしか出来ないとされていることをしている生活を送っている自分に、無理やり優越感を感じさせていたのである。

こんな生活を続け、高校を卒業する頃、退学した高校の友人たちは卒業証書を手に持ち、集合写真を撮っているのをインスタで目にした。
3年間やるべき事から逃げ続け、得意と言えることが何もなくなってしまった自分とは対照的に、部活の後輩から寄せ書きをもらっている友人たちの写真を見た時、かなり心苦しくなったことをよく覚えている。

ニート期

なんやかんやで通信高校を卒業することができた。
高校受験の時と同じノリで早稲田大学の商学部も受験してみたのだが、言うまでもなく玉砕した。
よって、いよいよ名実共にニート生活が始まった。

一見すると鬱屈な生活が始まるように思えるが、実際のところこの期間が1番楽しかったかもしれない。理由としては、熱中するものがあったからである。
それは何かというと、ひたすらに性の悦びを追い求めていたのである。(僕の周りだけかもしれないが、自分には長所がないと感じている人は性関係が荒れる傾向にある気がする)

毎日のように画面を眺め、可愛い女の子を見つけてはスワイプし、毎週誰かしらと会っていた。
当時はTinder黎明期だったこともあったので恐らく今よりマッチ率とか高かったんじゃないかなと思う。

そして、気付いた頃には12月になっていた。
Tinderライフにも飽きてきたのもあり、どこでもいいから大学に行こうと決意した。
ストーリーで見る中高の友達たちのキャンパスライフが眩しくて羨ましかったのである。

義務教育以降1分も勉強していなかった為、近所のFラン大をセンター利用で受験することを決めた。

1ヶ月間、「中学生でもわかる高校〇〇」みたいな参考書を解きまくり、なんとかFラン大に合格することができた。国英社の3科目で得点率が75%くらいだった。

合格発表後、大学生活楽しみだなあなどと思いながら4月までダラダラと過ごしていたのだが、このタイミングでコロナが襲いかかってくる。
どうなっちまんだ僕の大学生活。

大学生

コロナ禍という初めての環境の中、初めての大学入学を迎える。コロナによって見出されたオンライン授業という方法は、高校2年生から2年半の間学校に通っていなかった自分にとっては、リハビリのようでとても合っていた。

入学から半年が経った頃、対面授業とオンライン授業を掛け合わせたハイブリッド登校というものが始まった。
3年ぶりの学校生活、最初に感じたことは、大学って何もかも自由な環境で、端的に言えば最高だった。

束縛されない環境で学ぶ学問はこんなに楽しいものなのかと感動したことを強く覚えている。

こんな真面目なことを言っておいてあれだが、1年生の間は、キャンパスライフ✖︎性というカスの大学生活をひたすらに楽しんだ。
可愛い人、この世に多すぎるんだよな。
この時期に、JD可愛い大好き生活をし過ぎた影響で一部の女子にかなり嫌われたし、大学卒業まで気まずいと感じる時間がかなり多くなってしまったが後悔はしていない。

2年生になると同時に、ゼミに入ることになった。
30個くらいのゼミから一つ選び、面接を経て合否が決まるという就活のような仕組みだったのだが、Fランという環境で比較的真面目に勉強していた自分はgpaが高かったこともあり難なく希望通りのゼミに入ることができた。

2年生以降、大学卒業に至るまでは大きく分けて2つの事に注力していた。
1つ目は、ゼミでの活動である。
ゼミ名や詳細な活動を書いてしまうと大学バレどころか本名バレしてしまうので簡潔に書くが、
地域と協力して条例を作ったり、ゼミで学んだ知見を基に観光会社へプレゼンやコンサルのようなことをしたり、政治家の方と意見を交換するなどしていた。
2つ目は、講義を聞いたり本を読んだりした時に出てきた疑問を、学内のその道のプロに質問しに行きまくるということをしていた。
僕が通っていた大学は、Fランといえど教授陣は業界の第一人者だらけであった。尚且つ、Fランに通っている生徒に能動性がある人など0に等しいので、優秀な教授陣を独占できていたのである。
AIによる自動運転の安全性や、カーボンニュートラルへの疑問点、人間が生きている意味のような答えのない質問まで様々な事を相談させてもらっていた。

上記の2つの活動を通して、社会に対する視野が広がったし、自分の考えを持ち、言語化する重要性や、人と人の繋がりの温かみなどを学ぶことができ、大学生活はとても豊かになったなあと強く感じている。

今すぐに社会から離脱してこの頃の生活に戻りたい。可愛い女の子と毎日会いたい。可愛い女の子に車で学校まで送り迎えしてもらってたこの頃に戻りたい。社会嫌すぎる。上司無理すぎ。なんなら同期も意識高くてキモい。無理無理。

また、これらの活動は就活にも有利に働き、インターンも行かずに4年生になるまで説明会すら受けていなかったにも関わらず就活で苦労することはなかった。

就活では一部上場の企業13社と外資系企業2社の計15社を受けたのだが、ESもSPI(適性検査)も面接も落ちることはなかった。
ESと面接は、大学でしてきた事と社会に出てやりたい事を伝えるだけで、SPIは元々得意なジャンルというか、パズルを解くだけという感覚だった。

学歴フィルターがあるなどと世間ではよく言われているが、僕が受けた15社の中ではこれと言って不利を感じることはなかった。(基本的に受けた会社はどこも主要就活サイトには学歴フィルターの存在を示唆されていた為かなり怯えていた)

とはいえ、就活の仕組みは大嫌いだし、諸悪の根源だと感じている。この話については後々別の記事として投稿するつもりである。

入った会社合ってなかったけど。休職辛い。毎日死にたくなる。体調悪すぎる。この3ヶ月間で6回くらい倒れてる。無理無理。

まあとにかく、大学という場所は僕にとって天国だった。新しい考え方を身につけることができたり、学問が楽しいものであることを知ることができたり、中高の友達とはまた別の雰囲気を纏った友達ができたりと良いこと尽くしであった。
何より、大学での生活を通して何より良かったと感じることは、中高の頃に失ってしまった「自分の努力次第で何者にもなることが出来る」という感覚を取り戻すことができたことである。

このボロボロの学歴で入社半年持たずに休職した男としては未来はかなり心配だし不安で毎日寝れないけど。

入社〜現在

入社5日前のタイミングで実家を出た。一人っ子ということもあり両親大好きっ子なので、とても辛かった。
母親に行ってくると伝えた時、涙を堪えながらハグを求めてくる姿を見た時の光景は今でも鮮明に思い出せるし、一生忘れることはないだろう。
入社前日の夜なんかはその光景を思い出して1時間近く泣いてしまった。東京生まれにも関わらず、ファットマンズアフタースクールの『東京少年』という曲を何度も聴き、何度も泣いていた。

そして4月1日、晴れて外資ITマンとして入社式を迎える事になったわけだが、周りを見れば優秀な人しかいないし、自己紹介の時に自分の大学名だけ悪目立ちしていたことが印象深い。

それから1ヶ月くらいは、自分が絵に描いたようなオフィスに勤めている姿をエントランスのガラスの反射越しに見るたびに違和感を感じつつもソワソワしていた。

その後は研修をこなしていたのだが、自分が担当する会議を目前にしたとき、突然全身から血の気が引く感覚に襲われ、手足が痺れて倒れてしまった。
救急車で運ばれ検査を行ったのだが特に問題はなく、その時点では熱中症という診断になった。

その後2週間くらい、大事をとって会社を休み療養していたのだが、一向に体調が良くならず、慢性的な吐き気と数回の嘔吐を繰り返してしまう状況だった。

友人の看護師数人にに相談したのち、心療内科を受診したところ適応障害、抑うつ、自律神経失調症の診断が出るとともに、休職が決まった。

そして10月22日現在、休職を始めて3ヶ月になるところである。いまだに体調は良くならず、突発的な吐き気と動悸に襲われることがよくある。
もちろんこのような状況で家事や外出もできない為、実家に帰ってきて両親にお世話になっている。

休職についてや、病状についてなどは別の記事で改めて投稿しようと考えている。

おわりに

自己満足として書いたのでここまで読んでくれた方がいるかはわかりませんが、もし居るのであれば、本当にありがとうございます。
はじめはテキトーに書いて1000文字程度に纏めようと思っていたのですが、気づいた時には5500文字を超えるという惨事に至っておりました。

今後も様々なテーマで投稿していく予定ですので、お手隙の際にお読みいただければ幸いです。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?