累積KJ法 R2ラウンド 「人間味ある矛盾を芸術や政治経済へ昇華させるには?」(第1章2節)/大塚
(前節では、これまで日本人が生きるために稼ぎつつも、私利私欲を離れた慈悲の心でもって、分を超えた利益は相互扶助として社会へ還元してきたと述べた。しかしながら、そうした姿勢は現代では忘れ去られ、日本の基層文化に根付いた商いの精神も風化している。現代の多くの企業は、哲学を欠いたまま生産性や効率化ばかり求め、働いている人たちの生活と企業との間には乖離が生まれてきている。そして煩雑な肉体労働や作業は廃れる。人々にとっては、自らの存在が寄る辺のない空虚なものに感じてしまい、どこそこと魂が彷徨っている。企業も疑心暗鬼となり、目先の利益を求めて内部留保を増やし、社会への還元は減ってきている。)
(とはいえ利己的なモチベーションが、人々の生活を突き動かすのは、なにも現代に限ったとこではない。特に現世利益など自らの安寧を求めてひたすらに祈っていた信仰の時代がかつてあった。その時代と現代との間にはどの様な違いがあるのだろうか。それを第2節では見ていく。)
一般的に言われるのは、仏教も含む日本人の宗教は、むしろ生まれ変わりを望むものだったということである。
(来世での安泰な生活を信じて、ある意味で利己的に寄付や善行を続けていたのである。それはインドの原始仏教の考えとは違っている。インドでは、無限に繰り返される転生の地獄からぬけ出して解脱することが最終目標であり、そのために厳しい修行を繰り返す。彼らからしてみれば日本の転生願望は俗物的で卑下すべき欲望である。一方、修行を繰り返して解脱を目指そうとする修行僧は、現実から遊離した世間知らずの自己満足であるとも逆に批判されるであろう。また別の立場として、悟りを開くということは「目標」などではなく、解脱の境地に入ったままで現実に帰ってきて、人々の苦しみに向き合おうとするための「手段」だと主張されることもある。)
そもそも悟りの境地へ至る道は想像もつかないほど過酷で、例えば釈尊の高弟の目連でさえ、惨殺されることでやっと心の垢を除き、輪廻から解脱したとされる。
仏典では次のように描かれる。
(惨殺された後に解脱したとなっては、それはもう解脱が最終目標になってしまっているが、それだけ前世での過ちなどで人間の心の垢は積りに積もっているということを表現する伝説的逸話である。日本人も前世や今世での罪を滅ぼすために、在家のままで善い行いを試みる。その目指すところが、原始仏教とは違い、来世での恵まれた生の確保である。日本人にとっての涅槃は、この世から別の高いところに存在しているのでなく、飽くまで現実世界と地続きのところに在るのだ。草葉の陰にご先祖様を感じたり、幽霊や妖怪を身近な古物から感じ取ったり、アニミズムと関わりの深い日本人ならではの感性である。そのように隣に生活しているものとして、神秘的、霊的な存在に身近だったからこそ、江戸時代の商人は貨幣に「生命」を見もした。)
(しかし現代では、暮らしに関わる物事が自然科学的に説明されるようになり、幽霊などの存在は否定されることになった。さらに日本人は、アニミズムの代替となる論理的な宗教意識を持ち合わせておらず、科学的には否定された神秘的な存在への感受性を言葉にできないまま持ち続けている。このようなアンビバレントな状況において彼らは、あるいは「神は細部に宿る」と生真面目さを生かした繊細なものづくり技術、またあるいは神秘性の表現であるアニメや漫画などのコンテンツ制作などにおいて世界をリードしてきた。しかし現在では、ものづくり業も労働者不足や賃金高騰などで先細りによって、コンテンツ業もアニメ界ではある一定の権威は持ちつつも、アメリカの音楽や映画、または韓国のアイドルなどの分野においては世界各国に遅れをとっている。そこで日本人が取るべき態度は、そのような世界に合わせて無理やりに科学的な思考を受け入れ、自分らの感受性を歪ませることではない。現在の自然科学では説明することのできない神秘をこそ受容し、欧米人では真似できない地点を目指すべきだ。)
(そこには現今の「誰一人取り残さない」というキャッチコピーを掲げるSDGsを例とするような、世界の平等を目指す考え方はそぐわない。なぜなら不均一な現実の事象の隙間にこそ神秘が生じる可能性があるからだ。確かに平等な世界の方が安心できる環境であろうし、生まれた地域や家柄といった自分ではどうしようもできない理由での差別に苦しむことは減るであろう。しかし差別を禁止することで、世界はデコボコがなく、均一でのっぺりしたものになってしまう。例えば、差別の苦しみに耐え抜いたアメリカの黒人奴隷から、ジャズやロック、ヒップホップの音楽が生まれた。いわれの無い差別に合うことは、命を絶ってしまったらそこで終わりだが、とてつもない創造力を反動的に生み出す可能性も同時にある。SDGsなどの取り組みは、かえって社会の生々しくて対抗意識にまみれたクリエイティビティを骨抜きにしてしまう懸念を生じさせる。涅槃へ行けば全ての苦しみから救われると説く仏教についても、同じような批判はできよう。一方、悟りを得て高名な僧となった後であっても、市井に交じることで日々の現実における矛盾と向き合い悩み続けているというのは、倉田百三の小説における親鸞像であった。そのように絶対的な悟りの境地は、もしかしたら死後の世界にはあるかもしれないが、現世においては存在せず解脱は相対的なものだというのが本来なのかもしれない。)
輪廻からの解脱に高い宗教的価値をおく原始仏教は浮世離れして現実との矛盾から生じる創造性へ繋がらない。それに対して、日本ではむしろ来世の生まれ変わりを祈った。
(もちろん原始仏教徒による建築や絵画、書などの文化産物が膨大に存在するのは言うまでもない。ただしそれらは現実問題とは離れた純粋芸術の趣が強いのではないか。一方で、日本人に身近であった俗世的な民俗仏教は、頼母子講や隠れキリシタンとの習合など、より生活に根付いた仕組みや芸術へと近づいていった。そのどちらが良い悪いと述べることはできないが、SDGsを例にした比較をすると、原始仏教も民俗仏教も今とは違って、目には見えない神秘的存在を許容していたことに大きな特徴があるかもしれない。そして日本の民俗仏教では、神秘的な来世を信じていたからこそ、みんな進んでお金を社会に還元し徳を積んでいたのだ。そして日々の労働の一挙手一投足が、アニミズムの意識と呼応して、植物や生物なども含めた社会全体の共生とつながっていた。しかし目に見えない神秘を、非科学的で非合理だと切り捨て近代化の道を突き進んだ日本人は、来世も転生も信じずに、現世利益のみを追い求めるようになった。それによって、お金はところどころに滞留し、労働と生活は分離し、人々は自らの人生を世界の中に当てはめることができず苦しむようになった。)
(そこでは、現代人は自分の人生を超えた長期的な時間感覚を無くしてしまっている。アメリカ先住民にとっては、時間の起点が我々とは逆で、今生きている瞬間より先に起きる出来事は過去であり、自分から後ろに未来が伸びているという。原初の世界誕生の瞬間から現在まで、後ろ歩きで進んでいるような感覚だ。また日本人はむしろ「時間の経過」という考えをせず、一瞬一瞬がパラパラ漫画のように更新されていると感じるのでないか。磁石を使ってお絵かきする子供用の絵画玩具のように、一度描いては消し、また描いては消しの繰り返しというように。なので今世が終わればその絵が消されて、また来世が描かれ始めるといった感じである。いわゆる無常観の考えだといえよう。そこでは何も自分の意のままにできるものはなく、必死に頑張っても素手でうなぎを捕まえようと悪戦苦闘するようなものだ。だからと言って厭世的になり刹那的に生きるのでなく、その無常の流れに身を任せて自らの生命を超えた存在に頼ってみることが必要でないか。)
今回はここまで。次回はこの章「陰徳と転生」をまとめます。