宇宙と調和
陽明学は、自らの心の本体から生まれる知識と行為に全力を集中することで人間が真に人間らしく生きる道を示した。人間が生まれつき備えた絶対的霊性である「良知」の絶対現在に、各人が工夫の全力を傾注することで、新しい創造的主体のあり方を設定したのである。
そして、自分の心の本体から生まれた知識や行為でなければ、いくら博識と篤行で飾られていようと、それは空虚なものとなるのだ。
王陽明は朱子学の影響を強く受けたのであるが、朱子が万物を支える理の存在を見極めてこその判断を重視する中、王陽明は一瞬一瞬に生まれる良知に基づく自己判断を主張している。
つまり、朱子は、万物を支える理の存在を見極めてこそ、その場に応じた判断と行為が可能となると主張する一方で、王陽明は規定の理に依存するのではなく、自己の衝動から瞬間ごとに生まれる良知を指針として、どういった理を掴み取るかを自ら判断すべきとしたのだ。
朱子は外部の理を重視し、王陽明は内部の良知を重視するという対照的な立場を取っているのである。陽明によると、内なる良知を信じ、それに従って行動することが人間の本来の生き方であり、創造的に生きるということだ。そのために、万物に共通する固定化した理に依存するのではなく、瞬間瞬間の良知に基づく自己判断を重視し、自らの本心から生まれる知識と行為に全力を注ぎ込むことが重要となる。
陽明学を修め私塾を開いた大塩平八郎(中斎)は、心のほうが身体を包んでいると悟ることで、ものを超越し支配することを知ることができると述べる。
物にしばられない融通無碍な心を手に入れることで、その時々に応じて最良の理に至ることができる。心臓が裏返って全身を包み込むような逆説が、致良知の根本となる。
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束縛を逃れた心が動く一瞬ごとに、天理を現出するよう心がける。それを達成できれば、志を立てることができる。その不断の積み重ねによって、ついには天理を、心そのものへと確実に宿すことができる。
しかし、瞑想や内省などの観念的な努力だけで天理に手が届くかというと、そういうとこではない。
李延平は、そもそもの朱子が教えを乞うた儒学者である。延平によると、真理に至るに主観的な仏教の悟りだけでは不十分であり、加えて客観界を貫く実践的な条理を見抜く必要があるという。
主観と客観の両方をしっかり見抜き、心の動き一つ一つに天理が現れるよう意識すると真の志が立つのだ。そうして、確固たる天理を、心に宿すことが可能となる。全身は自由自在な心にすっぽり覆われる。
王陽明は、人間が生まれつき備えた「良知」の絶対現在に全力を傾け、創造的に生くべしと提起した。さらに、日本の超国家主義者である大川周明も、人生の究極の理想とは、神に従い各人の才能にあった事業に就かせて、個性を発展させることにあると、西洋と東洋の先哲に倣って述べている。(この理想は、ただ仕事をするだけではなく、自分の才能や興味を最大限に活かすことで、より意義深い人生を送ることを目指している。)
西郷隆盛の遺訓にも次のような言葉が残っている。有名な「敬天愛人」について話している部分だ。
(つまり、単に生きるために働くのではなく、真の幸福や満足感を追求することが重要だということ。)天から受けた使命を全うし、自分と同じく他人を愛し尊重する心を忘れずに個性を育むことで、人は食べるためだけでなく、真の生きる意味を見出すことができる。(しかし現実は、日々食べていくために働くという態度が、人々のうち大多数を占めている。)
アジア主義の統領、頭山満も、西郷隆盛の遺訓を解説して次のように述べる。
大川周明曰く、本来ならばどのような人であれ、自分のやるべき天命に対して懸命であれば、完全なる個性の発展を遂げて宇宙大霊と一体化することができる。(これにより、最終的には個人の成長が全体の調和にもつながり、宇宙の一部としての自分を感じることができる。)
陽明学は、自らの心の本体から生まれる知識と行為に全力を集中することで真に人間らしく生きる道を示したものである。良知の絶対現在に各人が工夫の全力を集中することを人間らしく生きる道と断定し、新しい創造的主体のあり方を設定したのだ。翻って言うと、自分自身の内的衝動から生まれた知識や行為でなければ、いくら深淵で徳が高いように見えても、その知識と行為は表層的に過ぎないということだ。
そのため大切なのは、心が全身を包むのだと悟り、一瞬ごとの心の動きに天理を見出すことだ。それを続けることで真の志を立て、遂には確たる天理を心に宿すことができる。とはいえそのためには、主観的な悟りだけでは不十分で、客観的な実践的条理を見抜くことも必要である。
天からの使命に従い、自己と他者への愛と尊重を忘れずに個性を育むことで、人は真の生きる意味を見出し、宇宙と一体化できる。これは、自己満足や成功を超えた、より深い意義のある人生に直結することである。しかしながら、実際の人間生活を観察すると、ただ食べるために働くという本末転倒に終始しているのが現実である。
自己喪失
現代においても、適切な目標設定と問題解決能力を持つことができれば、社会的分業における各人の存在価値を見つけることができる。それができずに、単に食べていくために働くことにとどまると、その結果は悲惨なものとなる。なぜなら、テクノロジーが圧倒的な速度で進展する現代においてますます、人間が人間らしく生きるために、自分の生まれてきた意味を自覚することが求められるからだ。しかし、そうした存在意義を見つけるための第一歩として必要となる、「自己を知ること」こそが、最も険しい難所になっている。
そして、三島由紀夫の指摘するように、絶望の存在する所に必ずファシズムの萌芽が潜んでいる。(自己の存在価値を見失った人々は、自分の人生に意味づけを与えてくれる極端な思想に引き込まれやすいのだ。)
自己を適切に理解することが困難なために、人々は現実の社会での自らの果たすべき役割を見出せず、絶望の淵に落ち込む。その悲観の中にこそ、三島の言うように、ファシズムが生まれる萌芽がある。
ここでファシズムの呼称を、ナチスのように特定の思想で社会を覆ってしまおうとする全体主義という意味で使えば、それは唯一の普遍的な理を求めて形骸化していった朱子学に近づいて、陽明学の思想とは相容れがたい。しかし、イタリアの初期ファシズムのように、様々な思想的社会的背景を持った人々が団結して社会を変えるという、団結主義の意味で考えると、むしろファシズムは陽明学に近づいていく。
すなわち、どのように生きるべきかという刹那ごとの良知をおさえ、各人が食べるだけでなく天命に従うために生活することは、社会全体の究極的最適化を促進し、天網恢恢疎にして漏らさず、できるだけ寛容なファシズム(団結)を実現させる可能性を持つのである。絶望の奈落に落ち込んで、切実に自己理解を希求する段階になってようやく、この重要性が身に染みてくる。
しかし、それだけでは単なる理想論に過ぎないではないか。いったい自分は何をしたいのか、何をすべきなのか、そこが分からなければ話は先に進まない。呻吟しながら気の遠くなるような自問自答を重ね、ようやくこれだと掴んでも、それが正しいという確証はどこにもなく、たちまち不安に襲われて手の中の結論は雲散霧消して結局は振り出しに戻る。陽明学の志は高しといえども、それを具体的に実践する方法論は確立してこなかったのである。つまり自分がどのように人生を歩むべきかという不安を克服できないと、堂々巡りの議論に陥り極端な思想で自らを慰めるしかなくなる。
それに対して、川喜田二郎が考案した「KJ法」が有用な示唆を与えてくれる。KJ法とは、気づきや意見、アイデアなどのデータをカードにひとつずつ書き出して、それをボトムアップでまとめることで、思ってもいなかった仮説を得る発想法の一種である。これが、創造的社会の隘路となっていた自己理解の困難を解決するための、誰にも開かれた技法となりうるのだ。川喜田二郎は自身の内面的体験を次のように綴る。
このKJ法については、従来から時間がかかりすぎるとの批判があった。本研究結社では、生成AIを用いて精度は保ちつつ所要時間を大幅に短縮するアプリを作成した。OpenAIのAPIキーがあれば誰でも無料で使用できる。
天命任用
国の政治を行うことは天命を実現することであるから、出自の利害や権威の座にこだわることなく、全国から相応しい人物を選び登用すべきだ。(特定の家系や地位に固執することは、真のリーダーシップを発揮できる人材を見逃す結果になる。国民全体の幸福と発展を目指すためには、もっと広い視野で適材適所を見極めなければならない。)
国の政治を行うことは単なる権威の保持ではなく、天命を実現するための重要な役割である。だからこそ、公平で公正な人材登用が求められ、それが真のリーダーシップを発揮するための基盤となる。国の未来を切り拓くためには、出自や地位にとらわれず、才能と志を持つ人々を適材適所に配置することが不可欠である。
このように考えると、選挙制度によって為政者を決める仕組みは破綻している。一介の人間如きが天命に代わって政治家を選ぶことは本来できないはずだ。代替の案として、前述のKJ法にて世論調査をする試みが挙げられる[川喜田 1996(1986)、pp.226-230]。己を空しくして、民衆の声を結集させることにより、人為を超絶した天の道理を政治に反映できるのではないか。
全体のまとめ
陽明学は、自らの心の本体から生まれる知識と行為に全力を集中することで真に人間らしく生きる道を示し、創造的主体のあり方を設定したものである。思想的源流となった朱子学は普遍的な理を重視する一方で、陽明学は瞬間の良知に基づく自己判断を重視している。そして後者は、良知の絶対現在に各人が工夫の全力を集中することを人間らしく生きる道と断定し、新しい創造的主体のあり方を設定したのである。それゆえ、自分の心の本体から生まれた知識や行為でなければ、いくら思慮深く徳の篤い姿で装飾されていようと、それは虚ろなものとされる。
ゆえに、自分の本心を大切にして、そのこころが身体を包むと悟ることが求められる。そうした心の刹那の動きに応じて自分なりの良知を見出すことで、真の志を立てて心に天の道理を宿すことができる。そのためには、主観的な悟りだけでなく、客観的な実践的条理を見抜くことも重要である。そのようにして、人は天からの使命に従い、自己と他者への愛と尊重を忘れずに個性を育むことで、真の生きる意味を見出し、宇宙と一体化できるはずであある。単に食べるために生きる、といった消極的姿勢を超えた、より深い意義のある人生を追求することが重要だ。しかし、大多数の人々は、食べていくのに必死で、天命を生きることなど思いもよらないで生きている。
そしてそれは、そもそも適切な自己理解を行い天命を見出すこと自体が、普通の人間にとってとてつもなく困難であることに起因している。ただ暮らしていくためだけに働く人々は社会で自分の存在価値を見出せず、絶望の底に落ち込んでゆく。しかし、その絶望の中にこそ、できる限り寛容な団結を目指す意味での、ファシズムが生まれる可能性が隠れているのもまた真である。そうした団結を現実化するには、まず矛盾に満ちた自己の理解を実現しないといけない。その時に有用となるのがKJ法であると述べた。技法の創始から半世紀経た現在、時間がかかりすぎると批判されてきたKJ法の欠点は、生成AIの発展により克服されようとしている。
また、政治の舞台に登る人材についても、KJ法を用いて自らの我を離れながら、世論を明らかにして各人の資質を見出すことができれば、現行の選挙制度に対する新たな代替案を示すことができるだろう。それによって天命を実践するという政治家本来の役割を果たすことが可能になる。
テクノロジーを駆使して、陽明学でいう良知を追求し、団結した社会を築き上げる。そうして人々は、自分が生まれてきた意義を自らが生きる世界において見出すことができ、創造性にあふれた人間らしい人生を歩むことができるのだ。