なるたきを
ちょっと前に、吉村昭氏の小説『ふぉん・しいほるとの娘』を読んだ。タイトルから察せられるかとおもうが、ドイツ人医師Philipp Franz Balthasar von Sieboldの娘がいちおうの主人公である。
小説とはいっても、シーボルトの来日にはじまり、彼の出島における生活や江戸参府随行の様子、シーボルトの行為が原因で引き起こされた事件やその後のことを、周囲の事柄を含めてすごくよく調べて書かれている。史実にかなり近いのではないかとおもう。
長崎市の花として設定されている紫陽花、その愛称は「おたくさ」で、これはシーボルトと出島出入りの遊女其扇(そのぎ、そのおおぎ)との間柄に因んでいる。其扇の本名は楠本たき(滝、瀧)といい、シーボルトは彼女を「おたきさん」などと呼んだらしい。
日本の植物採集をおこなっていたシーボルトは、紫陽花のうつくしさと其扇のそれを重ねて「おたくさ」と名付けた、という。
長崎は、そのエピソードを市花や土産物のモチーフなどに用い、観光材料のひとつとした。そこらへんを以前から胡散くさく感じていた私は、この小説を読んでそのおもいをいっそう強くした。
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『ふぉん・しいほるとの娘』は上下巻にわかれており、主人公はシーボルトとたき(其扇)の娘・楠本いねではあるものの、いねの出生以前のことから細部が描かれている長編作品である。
日本の鎖国期間とされているのは1639年(ポルトガル船入港禁止)から1854年(日米和親条約締結)までで、シーボルトの来日は1823年である。鎖国政策下、長崎の出島に、オランダ商館医として入国した。
ドイツ人であるシーボルトは、日本人オランダ通詞がヨーロッパの地理に疎いのをいいことに、自分のオランダ語が拙い理由は高地オランダ人であるからだ、などといって、つまり国籍を偽称して入国を果たした。
シーボルトは、商館医であるとともに、オランダ政府から日本の国情調査、研究を依頼された人物であった。
『ふぉん・しいほるとの娘』では、シーボルトの医学者としての活躍や、其扇(たき)との関係、日本の国情調査研究をおこなう様子などが詳細に語られる。
シーボルト事件により国外追放処分を受ける前年に、小説の主人公である娘いね(稲、伊祢)が生まれている。いねの物語がはじまるのは上巻の後半からである。
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先日、春徳寺というところに行こうと思いつき、車を出した。春徳寺にはトードス・オス・サントス教会跡というのがあって、別の話題のために一度行っておきたかったのだ。
近くにおいしい和菓子屋があったな、とおもいつつ出かけた。
車を停めて地図をひらいてみると、シーボルト宅跡が近くにあることに気がついた。
春徳寺をひととおりみたあと、シーボルトゆかりの地もみておくことにした。ちょろちょろと流れる細い川(鳴滝川)に沿って、せまい道を進んだ。
シーボルト宅跡は整地された原っぱだった。3千坪ほどあるらしい。梅の花が咲いていて、寂し気な敷地の奥に建物が見えた。シーボルト記念館だ。
入館料は100円と書いてあって、少し悩んだけれど入ることにした。
どんなものがあるのだろうと展示室の入口を入ったところで、妙な音がするのに気づいた。何か不気味な音、とおもったら、観覧者(じいさん)の唸り声だった。
やりすごそうとおもったけれど、展示をひとつ移動するたびに唸っている。じいさんが出す声音の波長は、私にはとても不快に感じるものだった。
100円なんだからいつかまた来たらいい、と、たまらなくなって記念館を出た。
シーボルト宅跡が鳴滝にある、というのは知っていたけれど、私は思い違いをしていて、なぜか片淵寄りのあたりなのだとおもっていた。
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『ふぉん・しいほるとの娘』はほんとうによく調べて書かれてあって、整理された文体が読みやすくていい。当時の事件、ニュースやゴシップのようなことも、物語の途中にうまく挿入されている。
市をあげて記念館をつくり、出島を「復元」などして飾り立てたり、きりとりの美談で観光みやげにするよりも、ずっと高い価値をもった作品だとおもう。
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今日の「過去記事」:『ふぉん・しいほるとの娘』にも書かれてある、1808年のフェートン号事件にまつわる記事を以前書きました。よかったら読んでください。