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姓をグーテンベルクというヨハンなる者
グーテンベルク印刷機なるものが16世紀の日本にもたらされたという文面は何度も目にしていたものの、とくに注目せずに過ごしていた。
ちょっとした必要があったため調べたところ、このグーテンベルク印刷術及び印刷機の発明は、宗教改革に大いなる影響を与えたのだということがでてきて、気になった。
発明者とされるヨハネス・グーテンベルクについては明らかでない部分が多いらしいところも人の興味をひく。
そういうわけでちょっと書いてみる。
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ヨハネス・グーテンベルク(Johannes Gensfleisch zur Laden zum Gutenberg)の確かな生年月日は不明であるが、いくつかの記録から判断して1398年から1400年ごろにライン川沿いのマインツ市(当時の神聖ローマ帝国・現ドイツ)の貴族の家系に生まれたとされる。
グーテンベルクの幼少時代がどのようなものだったか、どういった教育を受けたのか、どこでどのような仕事に従事したのか、明らかにする資料はほとんど存在しておらず、いくつかの推測が示されているのみであるという。
1436年頃にはシュトラースブルク(現フランス・ストラスブール)で宝石の加工及び手鏡の製作に関わったとされ、そのかたわらで(手鏡の原材料でもある)鉛と圧搾機を使い、ある技術の試みをしていたそうである。この実験は外部に漏れないよう秘密のうちにおこなわれたため、実際どのようなものであったかははっきりしないものの、その後可動式活版印刷機を発明していることから、おそらく活版印刷に関するものであったろうといわれている。
グーテンベルクは事業資金のためであるとおもわれる借金を生涯で幾度かしている。まず共同事業者とするとして二人の技術者に援助をたのみ、1441年にはシュトラースブルクのセント・トマス教区の資金から借り入れを受けた。このころの借金は多額ではなさそうだ。
1448年には親せきのアルノルド・ケルトフスから借用した150グルデン(年利8%)を元手とし鉛、錫、鋼鉄、インキ、用紙とそれに諸工具を整備して小規模な設備で印刷物を製作したといわれる。
1450年、印刷術を完成させるため(たぶん)グーテンベルクはマインツの富裕家(あるいは銀行業者、金貸し)かつ金細工職人であるヨハン・フスト(Johann Fust)という人物から事業の元手として800グルデンを年利6%で借り入れた。これは、当時で言えば相当の家屋が8件建てられるほどの大金だったといわれている。さらに、1452年の終りに追加で800グルデンを借りた。
完成させたその印刷術を用いて印刷されたのは聖書であった。当時の書物はひとつひとつ手写しで書いていたため完成には時間がかかったし、そのせいで高価であったために一般の人々にとっては容易に購うことができないものだったのだ。
グーテンベルクによる可動式活版印刷術及び機械の発明と、フストの資金のおかげで聖書が一般の人々の手に入りやすくなった。このことは、マルティン・ルターによる宗教改革(1517年に「95カ条の論題」が掲示されたのをきっかけに起こった)に拍車をかけたのだという。
グーテンベルクは印刷技術の成功を、フストは巨額の利益を、そしてマルティン・ルターはカトリックの内部改革を、とそれぞれ目的が違っていたもの同士が出合い、歴史に残る出来事となった。
ドイツの宗教改革の話題も興味深いものの、その方向へ行ってしまうと迷子になるので、話をグーテンベルクとフストに戻す。
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多額の出資をしたフストの目的はもちろんこの新しい技術によって巨利を得ることにあって、大金をつぎ込んだかいあってこの技術は完成をみた。しかし利益を手にするにはまだずいぶん道のりが長いとフストはおもった。グーテンベルクに任せておくと手元に儲けが入るようになるのが、いったいいつになるかわからない。
ただ歳月の流れるのを黙ってみておられなかったフストは、グーテンベルクの助手として働いていたピーター・シェファー(Peter Schoffer)に目をつけ、技術習得に励むよう仕向けた。教養もあり技術者としても優秀だったシェファーに娘を嫁がせ、いろいろの下地を準備したうえでフストはグーテンベルクに対し融資した1600グルデンに利子426グルデンを足した2026グルデンを返還するよう訴訟を起こした。
グーテンベルクに支払能力があるはずもなく、裁判官にフストの主張が不当なことや約束の違うことを訴えたが、抵当とされた工具・材料・成果品(『四十二行聖書』など)を没収された。
いっさいを失くし、フスト以外からの借財もあったグーテンベルクは財政的困難に陥った。グーテンベルクの保証人となったせいで二度も縄をかけられた人物もいたらしい。
友人や後援者たちにも見放されてしまったグーテンベルクだったが、その技術だか人柄だかをみとめ手を差し伸べてくれる人があった。その人はマインツ市の法律顧問であるコンラート・フメリー博士(Konrad Fumery)で、博士のおかげでグーテンベルクは1455、6年ごろにエルトヴィルという地に第二の印刷工場を設け、事業を続けることができた。その新工場で1461年には『三十六行聖書』を印刷・刊行した。(ということだが彼には出版物に印刷日や印刷者の名前を入れるという発想はなかった)
グーテンベルクの晩年にあたる1461年、マインツでは大司教ディエテル・フォン・イーゼンブルクと後任のアドルフ・フォン・ナッサウの間でもめごとが起こった。一般市民も巻き込んだ争いのすえアドルフは1462年にマインツを攻めた。この紛争で、そのころフストのものになっていた印刷所は焼かれ、商売道具もろとも灰燼に帰したという。
グーテンベルクはマインツの新しい支配者であるアドルフ大司教に終身有給侍従として招かれた。定服年金(被服費)や一定の穀物、ワインなどを無税で支給され、穏やかな老後を過ごすことができたという。
この登用はアドルフ伯に対する奉仕のためとも、あるいは活版印刷術の発明に対する功績ともいわれ、そのへんのことははっきりしないらしい。しかしとにかくグーテンベルクの晩年の暮らしは穏やかだった。
そんな暮らしを数年過ごして1468年2月2日または3日に亡くなったという。遺骸はマインツの聖フランチェスカ教会(St. Franziska)境内にあるゲンスフライシュ家(父方)の墓所に葬られたが、1793年の普仏戦争の際にフランス軍の砲撃により聖フランチェスカ教会は焼失した。
1462年の紛争で印刷所を失ったあとのフストの人生についてはよくわかっていない。1466年に商売のためにパリに渡っており、その夏にパリで猛威を振るったペストが原因で亡くなった。印刷事業は娘婿のシェファーによって継続されたと伝えられる。
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グーテンベルクが発明した印刷技術を使って、(需要の見込まれる)聖書を多量に印刷して利益をうみだすことを考え、持っていた資金でそれを援けながら水面下でその技術・設備・成果物をわがものとする準備を進め、実行に移したフストを、その手段を指して悪人扱いする見方もある。
パリでは50冊の聖書を販売しており、フランスでは印刷がまだ最前線に来ていなかったため、パリの人々はこれほど多くの聖書をこれほど早く作成し販売することを理解できず、市民はフストの印刷事業には悪魔が関係していると考え、黒魔術の容疑で投獄されたりしたらしい。
しかしながら、フストの資金がなければグーテンベルクの発明が世に出る時期や機会も違ったものになっていたのだから、新世代の印刷に大きな影響を与えることになったのはたしかだとしてフストを印刷機の祖とする人もあるようだ。
ドイツにおいて、印刷技術と印刷機の発明後にマルティン・ルターの内部改革によってプロテスタントが起こった。
失われつつあるカトリック教会の権威をとりもどそうと創設されたのがイエズス会である。
ドイツからノルウェー、スウェーデン、フランスやオランダ、イングランド方面にプロテスタントが伝わる一方、イタリア、スペイン、ポルトガル、フランスなどではカトリック教会がいぜんとして強く、国家統治の手段として利用された。宗教内乱に外国勢力が加わり、ヨーロッパに宗教内乱が吹き荒れることとなった。
ヨーロッパの宗教的内乱を頭に入れ、その世界史上の歴史をみたとき、わが日本が巻きこまれつつもすっかり侵されてしまうまでにならなかったことをおもうと、ちょっと放心してしまう。
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天正遣欧使節団によって1590年に日本にやってきたグーテンベルク印刷機は、主に長崎・天草の各地を転々としながら印刷事業がおこなわれ、1614年の禁教令後はその活動も困難となり、マカオに移されたあとはどうなったのか明らかでない。
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![片山 緑紗(かたやま つかさ)](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/88062411/profile_40986e63de0efc53c1d7972e9b044d47.png?width=600&crop=1:1,smart)