いろどりをもつ短編 梅崎春生
あることのために読んだ短編集で梅崎春生の「赤帯の話」に出合った。このひとの作品を読んだおぼえはないから、まあはじめましてといっていいとおもう(恥ずかしながら)。これはシベリア抑留民の一場面を描いた短い話である。赤帯というのは抑留民のうちのある班の親方であるソ連兵のことで、あだ名である。
この短い話は、冒頭と最後の場面で夢の話が出てくる。情景の描写には色の表現がよく出てくる。そんなふうなことを感じながら読んだ。
主人公(「私」という日本人)は、空腹を抱えてくりかえし、食べものの夢を見る。夢の中の食べものも毎回同じもののようである。
情景を描写する色に反応したのがふしぎといえばふしぎにおもう。シベリアの景色が色彩のとぼしい世界だから(冬である)、そういうふうにしたんだろうか。ともおもったけれど、他の作品を読んでみてもわりと色の表現がみられる。色に反応するのは、ふだんの生活に色の存在があたりまえになりすぎていて、だからこういう文字での表現が新鮮に感じられるのかもしれない。
どこに目を向けてもだいたいカラフルだし、写真はカラーだし、映像作品なんかも色鮮やかである。小説に描かれた時代の記録には、色のついていないものも多いから、読みながらのイメージの助けになる。光の表現もときどき挿入されていて、同じような感想をもった。
ねむっているときに見る夢というのにも、色のついてないことが多いとか、そんなことを聞いたことがある。私の夢は色つきだ。だけど、じつは(っていうのも変だけど)夢というものをあまり見ないか、おぼえていないか、そんなふうである。どちらにせよ、とにかく印象に残ってないことのほうが圧倒的に多い。だから色つき、とはいったものの、実際のところどうなのか、確信はない。身の回りに色があふれているという生活があたりまえになっているせいで、そう思い込んでいるだけかもしれない。くりかえし見るような夢ももっていない。
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梅崎春生の文章をもう少し読んでみたくて青空文庫を探したら、いくつかあった。いまは『幻化』というのを読んでいる。
とちゅう、阿蘇が出てきた。阿蘇には先日、お供して行ってきたばかりである。写真を撮る機会を得た。
色と光がいっぱいの写真が撮れた。