「甘え」について考える:②前置き -甘えと鬱-
今はあまり聞かないが、一時期「鬱は甘え」という人が多くいたように思う。やる気が出ない、朝起きれないのは本人の努力不足であり、したがって「甘え」であると。
最近、鬱病とヘルペスウイルスとの関連性が発見され、この「鬱は甘え」という考え方が科学的に否定される日も近いかもしれない。しかし依然として、特に根性論の信仰者は「鬱が甘え」だと思っているのではないだろうか。
土居健郎『「甘え」の構造』を読んで、甘えとは日本人の文化にべったりと癒着し溶け込んでいる精神性であるとわかった。さながらコーヒーに溶かした砂糖のように、日本人の精神と一体化しているといっていい。
ここで「日本人の」と言ったが、これは欧米語(ここでは英語とドイツ語)に「甘え」に該当する言葉がないことを土居氏が発見、指摘し「甘え」研究の端緒として日本文化と欧米文化との比較から出発しているためである。
しかし欧米語に「甘え」を指す語はないものの、そうした感情や気分といったものを欧米の人々が感じないわけではないことも指摘されている。つまり、日本文化および日本人の精神性は「甘え」に支配されている部分が多いものの、それは日本人固有のものではなく、人間の精神に根付くものと考えられるということだ。それを容認したのが日本文化であり、切り捨てたのが欧米文化という違いだ。そのことが「甘え」という語の有無としてあらわれている。
「甘え」が人間の精神に根付いているものであり、万人が「甘え」を持っているとするならば、根性論者の言う「鬱は甘え」はもしかしたら正しいのかもしれない。しかしながらそれは本人の努力不足という意味合いではなく、根性論者も「甘え」を持っているし、人間誰しも鬱になる可能性があるということだ。
また、「甘え」が人間の精神に根付く普遍性を持っているからこそ、『「甘え」の構造』ではあらゆる現象の根底に「甘え」あることを指摘している。義理と人情、「すまない(すみません)」という言葉、祖先崇拝等々。
著者が「甘え」のことを考えるあまり、全てが「甘え」に見えてしまい全てを「甘え」に還元しているのではないかと思えるほどだ。
コーヒーに溶かした砂糖だけを取り出すことができないように、「甘え」もそれ単体を取り出して論じるのは難しいということでもあるかもしれない。「鬱は甘え」論も、「甘え」がこうした捉えどころのない性質があるため発生したと考えることができよう。
全てを「甘え」に還元するのが近視眼的で偏ったものの見方だとしても、「甘え」という視点から様々な物事を眺めてみるのは無駄ではないと思う。世界を解釈するひとつの視点として、自分のツールのひとつに加えることで視野が広がるかもしれないからだ。
ここで言いたかったのは、「甘え」は万人が持っているものだということ、したがってもしかしたら「鬱は甘え」なのかもしれないが、それは本人の努力云々ではなく、ただ人間の性質に過ぎない自然現象のようなものではないかということだ。
(参考:土居健郎『「甘え」の構造 [増補普及版]』)