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性虐待を受けて育ったわたしが太宰治の「人間失格」を読んで思うこと

※性被害についての表現があるために、フラッシュバックの可能性がある方はご注意下さい。


太宰治の「人間失格」が、ただの青年文学ではないと知ったら、どれだけの人が驚くでしょうか。この物語は、性虐待被害者による生々しい叫び声そのものです。

この文章を書いているわたし自身も、実父からの性虐待被害者であり、共感する面がたくさんあります。



主人公の葉蔵は、幼い頃に家の下男下女から性虐待を受けます。このことは、本書P24「その頃、すでに自分は、女中や下男から、哀しいことを教えられ、犯されていました。
幼少のものに対して、そのような事を行うのは、人間の行いうる犯罪の中で最も醜悪で下等で、残酷な犯罪だと、自分は今では思っています。」またP27「下男下女たちの憎むべきあの犯罪」を見ると明らかです。


葉蔵の人生の苦悩は、そのまま性被害者の心の苦悩です。性被害者は、その出来事のショックからPTSD(=外傷後ストレス障害)を発症し、自らが悪かったのだと思い込む傾向にあります。性被害者のPTSDの発症率は40〜80%と言われています。(本書の場合は複雑性PTSDとも考えられます。)
PTSDの症状としては、フラッシュバック、回避行動、否定的自己概念など、さまざまです。

自分がちゃんと拒否をしなかったから、自分が勘違いをさせたから、と自分を責めるようになります。被害を拒否できないのは当たり前のことです。
葉蔵は拒否できないものの不幸、と表現していますが、それは当たり前のことです。そして自らを、死ななければならぬ、と責めてしまいます。死にたい以上の、死ななければならぬ、なのです。


本書で葉蔵が次のことを述べています。
P149「自分の不幸は、すべて自分の罪悪からなので、誰にも抗議のしようがない」「自分でもわけがわからないけれども、とにかく罪悪のかたまりらしいので、どこまでもおのずからどんどん不幸になるばかりで、防ぎ止める具体策などないのです」
くり返しになりますが、このように性被害者は自分のことを責めてしまいます。

自分を、罪悪のかたまりのように感じ、加害者を責めるに至らなくなります。世の中を生きていくのに苦痛が大きすぎて、死を考えたり、逃避をします。P58「世の中の人間の「実生活」というものを恐怖しながら、毎夜の不眠の地獄で呻いているよりは、いっそ牢屋のほうが、楽かもしれないとさえ考えていました」はまさに逃避への願望に思えます。


また、葉蔵はなぜ父母に被害のことを言わなかったのか
P24「自分は、その父と母をも全部は理解することができなかったのです。」「所詮、人間に訴えるのは無駄である。」P27「人間が、葉蔵という自分に対して信頼の殻を固く閉じていたからだと思います。」
このように、葉蔵は人間を信用しなくなり、心を閉ざしたためです。他者を信じることが難しくなったのです。

また、葉蔵は堕落した生活を送りますが、PTSDの症状にも何かに依存する、自分を大切にしなくなるなどの症状があり、これに当てはまります。
また、P69「弱虫は、幸福をさえおそれるものです。綿で怪我をするんです。幸福に傷つけられることもあるんです。」という言葉も、PTSDの症状として考えられます。
幸福に恐怖心を抱き、被害の記憶に留まることがあります。幸せになるとまた悪いことが起きる、幸せがまた何かによって壊されるように感じるのです。


さらに、ヨシ子が目の前でレイプをされる場面でも、自身の体験がフラッシュバックし、体が硬直して動くことができず、助けることができなかったと考えられます。これらのいくつものシーンから、葉蔵の人生は性被害者ののPTSDに振り回されていることは明らかです。


人間失格、恥の多い生涯を送ってきたのは、葉蔵ではありません。
彼に悲しい罪を犯し、被害を与えた人間のほうです。



参考
https://www.npa.go.jp/hanzaihigai/suisin/kihon/6/nakazima3.pdf

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