二つのアイヒマンの肖像、あるいは歴史の「客観性」
『エルサレム<以前>のアイヒマン』という本が話題になっているらしい。これは明らかにハンナ・アーレントの『エルサレムのアイヒマン』に対する一つの反応だ。私はこのどちらも読んでいない。読んでいないからそれについて語るのはやや無責任の感もあるが、本それ自体に対してあれこれの批評をしようというのではない。この出来事から敷衍してより一般的に、歴史の「客観性」について云々するつもりだ。
アイヒマンの二つの肖像
まず、そもそもアドルフ・アイヒマンという人物をご存じだろうか。彼はヒトラー政権下のドイツで親衛隊保安部「ユダヤ人対策」部門の専門家として反ユダヤ主義政策の立案・調整、政策の実行指揮を行った人物である。第二次世界大戦後にアメリカ占領軍捕虜収容所に抑留されていたが、アルゼンチンへ逃亡、1960年に逃亡先のブエノスアイレスでイスラエルの諜報機関につかまりイスラエルへと護送され、1961年には彼を被告として裁判が開かれた。
世界中が注目する中で、裁判所に現れたアイヒマンは、予想に反し狂信的な反ユダヤ主義者にも過激な人種主義者にも見えない。アイヒマンは「あなたは自らを、数百万のユダヤ人殺害の共犯によって有罪であると考えますか」というハウスナー検事長の問いかけに対して、「命令に従って義務を遂行下に過ぎません」「自分は一切の殺害に手を下していないし、命じてもいません」「職務に忠実な官吏であり、個人的な責任はないと思います」と答えた。
ハンナ・アーレントはそんなアイヒマンに「悪の凡庸さ」を見て取った。つまり悪とは悪逆な人物によってなされるのではない、ただ普通の人々が与えられた義務を無批判にうけいれ、遂行するために行われてしまうものなのであり、だれしもがアイヒマンになりうるのである。これが私の聞きかじったかぎりでのアーレントの主張であった。
こうしたアーレントの描いたアイヒマン像にたいして、まったくちがうアイヒマン像を提示したのが先に述べた『エルサレム<以前>のアイヒマン』らしい。膨大なアイヒマンの自筆文章や音声記録をもとに、実はアイヒマン自身が嬉々として意欲的に「殺戮」の義務を遂行していた様子が描き出されているという。つまりこの本ではアイヒマンはアーレントの描いたような普通の官吏ではなく、彼自身が悪逆非道の人物だったというのだ。
戦後ドイツと歴史家論争
ここにアイヒマンの二つの肖像が提出された。ひとつはアレントの提出したただ任務を忠実に遂行する普通の官吏としてのアイヒマン。もうひとつは、それに対して自ら危機として殺戮を行う悪逆な人物としてのアイヒマン。
私にはこの悪逆なアイヒマン像を提出することの意義がいまいち判然としない。たしかに客観性を旨とする歴史学の上では、たんに受動的な人物とされてきたアイヒマンが能動的に殺戮を行っていたという「客観的な事実」を提示することは意義あることなのだろう。私はその客観への志向自体を否定するつもりは毛頭ない。しかしではアイヒマンの悪逆な性向を強調するのは本当に客観的な記述なのだろうか。そこにはホロコーストの責任をすべて悪逆なナチスへと期するような欲望が潜んではいないと言い切れるだろうか。(もちろんしっかりと著作を読み込めばそのあたりもフォローされているかもしれないが、ひとまずそこは置いておく。)
ここで思い出されるのは石田勇治『過去の克服:ヒトラー後のドイツ』のことである。今でこそナチス時代の過去と向き合い移民の受け入れなどを積極的に行う人権先進国としてのイメージの強いドイツであるが、戦後ドイツの人々が敗戦直後からナチの蛮行の実体をすべて正確に把握していたわけでも、自分たちの責任を自覚していたわけでもない。むしろ何度もナチ時代の影は立ち上り揺れ動いてきた中で成熟していったのだ。
アデナウアーは国際社会への復帰を目指すために、東西冷戦のさなかに西側諸国にコミットした一方で、国家の秩序を維持するため旧ナチ派への追及を弱め再統合政策を図った。そのため西ドイツの非ナチ化は中途半端に終わり、元親衛隊保安部の高校教師ルートヴィヒ・ツィントが「ナチがガスで殺害したユダヤ人はあまりにも少なすぎた」と発言する事件が起こるなど反ユダヤ主義は残存してしまった。学生運動による反権威主義の空気を背景に1970年に登場したヴィリー・ブラントがワルシャワのゲットー跡地に跪いたことによってはじめて、戦後ドイツがナチスドイツのもたらした災いの責任を引き受ける立場を示されたのである。
話が少し脱線してしまったが、ドイツでは何度もナチスドイツの罪を自分たちで免責しようとしてきた過去があった。エルンスト・ノルテとユルゲン・ハーバーマスとの間に繰り広げられた歴史家論争もそのような流れをくむものだった。ノルテは「過ぎ去ろうとしない過去」と題した論文を発表し、アウシュヴィッツは過去から続く反ユダヤ主義によるものというよりは「ロシア革命の絶滅行為に対する不安から生まれた反動」なのであり、「ロシア革命の階級殺戮というより大きな悪事を阻止するための小さな悪事」に過ぎないとし、「ナチのホロコーストはスターリンの大粛清やポル・ポトの大虐殺と比較可能である」としてアウシュヴィッツを相対化しようとした。それに対してハーバーマスは激しく反発し、ホロコーストに代表されるナチの蛮行は絶対的なものと規定し、ドイツ人はそれを経ることで普遍的な西欧理念に到達できるのだと論じた。
この論争を私たちはどうとらえればよいのだろうか。ロシア革命への反動だったかはさておいても、単純に被害者の数からいえば、アウシュヴィッツがスターリンらのおこなった大虐殺と比較可能だとするノルテの主張は客観的な歴史学の立場からすれば正当なようにも思える。それと比べるとハーバーマスの議論は理念先行で主観的な主張だ。客観的な学としての歴史学の視点からすれば、ノルテの主張の方がおそらく筋が通っているかもしれない。しかしながら、ではこの論争はノルテの勝利とみていいのだろうか。
歴史の「客観性」について
そうではない、と私は言いたい。なぜならば、ノルテの主張もまた主観的意識を免れてないからである。ノルテの議論はアウシュヴィッツという「ドイツ史に刺さった棘」を抜こうとする試みであり、ナチス時代の犯罪性を希釈しようとする意図は否めない。その限りではノルテの議論も主観性を免れていないのである。
より敷衍してこういうことができよう。つまり歴史学とは客観性を旨とするものだとは言え、決して真の意味で主観性を免れた客観的な歴史などは編むことができないのである。(そんなことが可能ならば歴史学など不必要だ。)そういう意味では一人ひとりの歴史家が、主観性を帯びた「客観」によって絶えず歴史を修正し、天上にある普遍の歴史を目指す試みこそ歴史学と言えよう。
だからと言って私はどんなに主観的な、もっと言えば手前勝手な捉え方でもいいという相対主義的な立場をとるつもりはない。そんな主張をしてはそれこそ歴史修正主義者だ。では歴史はどうあるべきか、私の考えを提示しておこう。先ほども述べた通り、歴史学は客観的な学として成立するべきものであることは間違いない。しかし同時に歴史には一定以上「引き受け」と、「引き受け」る者としての主体の自己省察も必要なのではないか。
これらはある意味では相反する。「引き受け」るためには己が主観性を強烈に意識する必要があるからだ。しかしその相反する二つを共に引き受けるものが歴史だ。それこそがハーバーマスの主張なのではないか。仮にノルテの言うように虐殺の規模だけでみればアウシュヴィッツはほかの虐殺と比較可能なものなのだろう。しかしアウシュヴィッツは自分たちドイツ人の犯した罪だ。それを「引き受け」、自己省察することによって同じ過ちを繰り返さないようにできる。それこそが歴史の意味だ、ハーバーマスはそう言っているように私には思われる。
歴史をそういうものとして考えるならば、『エルサレム<以前>のアイヒマン』にはどのような意義があるだろうか。すでに述べたように歴史学の客観性という意義があるにしても、ややもするとそこにはナチスドイツの罪を、ドイツ国民の罪としてではなく、ナチス党員や親衛隊員の悪逆さに帰そうとしてしまっているのではないか。アイヒマンが悪逆非道な人物だといったところで、私たちが「引き受け」ることができるものは何もないのではないか。
そうであるならばやはり私はアーレントの「悪の凡庸さ」という指摘こそ重要なものだったといいたい。義務に無反省に忠実である普通の人々、彼らはいつでも悪の権化たるアイヒマンになりうる。そうしたアーレントの指摘を、私たち一人ひとりが「引き受け」たならば、全体主義を退けることができる。そうした「引き受け」と自己反省を促す力は、アーレントの描いたアイヒマンの肖像にこそあるのである。
最後に
言うまでもないことだが、この記事は歴史をめぐる現在の日本の言説を念頭に置いて書いている。ドイツの歴史の「引き受け」を巡る議論を通じて、現在の日本の状況に思いをはせていただければ幸いである。
関連書籍
○ハンナ・アーレント『エルサレムのアイヒマン』
○ベッティーナ・シュタングネト『エルサレム<以前>のアイヒマン』
○ハーバーマス他『過ぎ去ろうとしない過去』
〇石田勇治『過去の克服:ナチス後のドイツ』
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