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【書評エッセイ】ちゃんとここにいなさい。
興味の幅が広い雑読種ゆえ、あちこちの沼につかっている。
先日はオランダのことを知りたくなり「オランダ沼」につかった。
そして今回つかったのは「お茶沼」。
新しいことを知りたいときには関連する本を3冊以上読む、と言う自分ルールに従い、これらの本を読んだ。
そして、この本に辿り着いた。
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「あとがき」に柳家小三治師匠も書かれているが、この本は本当に「お茶」の本だろうか?
「花」の本でもあり、「和菓子」の本でもあり、「掛け軸」の本でもあり、「茶道具」の本でもある。
それ以上に、「四季」の本であり、「五感」の本であり、「音」の本でもある。
そして、究極的には「生き方」の本である。
以下、本文より引用させて頂く。
こんなふうに一心に雨を聴いたことはなかった。雨音の密林の奥深く、分け入っていくような気がした。ドキドキする。生々しくて、なんだか恐ろしい。だけど、もっと先へ分け入りたくなる。私は「耳」そのものになった。
手順を間違えてはならないという緊張も、抱え込んだままで常に気にかかっている仕事も、今日帰ったらしなければいけない用事も、何もなかった。 自分はもっと頑張らなくてはダメだという思いも、他人から好かれ評価されなければ自分は無価値なのではないかという不安も、人に弱みを見られたくないという恐怖感も、消えていた。とてつもなく自由だった。生暖かい大粒の雨を、肌に痛いほど激しく浴びているかのようだ。嬉しくて楽しくて、子どものように歓声を上げながら、目も開けられないほどのどしゃぶりの雨に洗われているみたいだ。こんな自由、今まで知らない。どこまで遠くへ行っても、そこは、広がった自分の裾野だった。ずーっとここにいたし、どこかに行く必要もなかった。してはいけないことなど、何もない。しなければいけないことも、何もない。足りないものなど、何もない。 私はただ、いるということだけで、百パーセントを満たしていた。
雨は、降りしきっていた。私は息づまるような感動の中に座っていた。雨の日は、雨を聴く。雪の日は、雪を見る。夏には、暑さを、冬には、身の切れるような寒さを味わう。……どんな日も、その日を思う存分味わう。 お茶とは、そういう「生き方」なのだ。 そうやって生きれば、人間はたとえ、まわりが「苦境」と呼ぶような事態に遭遇したとしても、その状況を楽しんで生きていけるかもしれないのだ。
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また、この本は「教えられる人」が書いた本でありながら、「教える人」の在り方についても書かれている。
先生である「武田のおばさん」は25年間ひたすら「お点前」だけを教え続ける。
毎週毎週、季節や天候、生徒(筆者)の心境の変化なども感じとりながら、飾る花を変え、掛け軸を変え、茶道具を変えることに心を尽くしているが、それらについては多くを語らない。
ただ、「ちゃんとここにいなさい」と言う。
「形を作って、後から心を入れなさい」と教える。
「頭じゃなくて、手が知っているから、手に聞きなさい」と教える。
「一つ一つの小さな動きに、キチンと心を入れなさい」と教える。
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この本は、本屋のどこに置くべきか?
小三治師匠も宗教コーナー?哲学コーナー?人生読本コーナー?と頭を悩まされている。
一周回って、やっぱりこの本は「お茶」のコーナーに置いて欲しい。
「お茶」をやろうとする人に、どんなハウツー本よりも、真っ先にこの本を読んでほしい。
本屋のお茶のコーナーに興味がない人でも、この本に出会うべき人は、きっとこの本に出会うと信じている。
私がそうであったように。
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