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不完全な司書
図書館といえば市町村単位で1つはあり、住民なら好きに本が借りられる場所である。公の場で少し緊張感がありそこにいる司書の方とはある程度の距離があると自分は今まで感じていた。
だがこの本の舞台となる図書館は違っているようだ。「人文系私設図書館」と名乗り場所は奈良県の山あいの村にある。
私設図書館ルチャ・リブロの司書である著者の、いつもそばに本があった人生を振り返るとともに本とは何か、図書館とは何かを語っている。
精神的な障害をもつ彼女が社会と関わる方法として選んだのが、図書館の司書になることだった。
私の中で、「障害のある私の横に立つ人」として、身内、介助者以外でよく知っている関係性に光が当たりました。図書館の利用者です。「横に立つ人」が図書館の利用者であれば、私は「障害のある人」でもあり「図書館員」でもあれるのです。「図書館員」であるところの私は支えられる存在であると共に、相手を助け支えることもできる存在になります。たとえそれが「不完全な司書」であっても。
本は「窓」のようだとつねづね考えています。扉、ではなく窓。ドアノブを回してすぐに別の世界に繰り出せる装置ではないけれど、窓があれば今いる部屋とは違った世界を感じることができます。(中略)
窓からの景色を一人でじっと眺めていた頃からいつのまにか、大きな窓に手招きして皆で「ほら、あそこ見て」なんて言い合うようになったんだと、はっとすることがあります。
彼女にとって本の存在は世界を覗いたり繋がったりできる「窓」であるという考え方がとても素敵だと思った。
自分も本を通して、現実には行けないし体験できないかもしれないけれど読むことで自由に想像し別の世界が繋がっているのだと気付けた。
そして一人で入り込んでいた本の世界が、「窓」として誰かと繋がり共有できるようになる、そんな変化をも生み出してくれる。
ルチャ・リブロでは付箋を貼ったまま蔵書を開くことでコミュニケーションが生まれている。こんな本の楽しみ方をしてみたい。
私達にとって自分達の蔵書というのは、自分達が何で悩んだり、何を問題だと考えてきたりしたかをそのまま閉じ込めた思考のあとさきのようなものです。(中略)
つまり私達にとって私設図書館を構え蔵書を一般に開いたことは、抱えきれない問題意識を開き、「一緒に考えてくれないか」と誰かを呼び込んだということだったのです。
一般的な図書館は公の性が強く、私を持ち込むことは躊躇われるが、この私設図書館では公は私が集まって一緒に作っていく場所だという。
訪れる人にとって堅苦しい場所ではなくもう少し緩やかな居場所になる図書館が増えてほしいと読みながら願った。
公と私が寄せては返すような場所で、エンドユーザーとしてではなく、手の届くところにある公を共に作っていく。そんな経験が積み重なることによって公に対する無力感が砕かれ、社会を一緒に形作る一歩になればなんてことを、山のふもとの図書館で思い描いています。
以前の仕事で上手くいかず心がすり減って、長期入院もしてきた彼女は生について様々なことを考えているようだ。
生きるというのは、燃え爆ぜるようなあり様なのではないかと思い至ります。私も発作的に心が爆ぜてしまう時がありますが、焼かれるような苦しさとともに「自分はまだ生きているな」と感じます。
「このモヤモヤに対して、自分が楽になる言葉は何だろう?」と何人かの自分が言葉を提案して、ホワイトボードが埋まってくる。(中略)
私は今日もあのグループワークのように、自分が生きる言葉を自分総動員で探しています。
自分は生きている意味をよく考えている。心が保たなくなって爆ぜてしまった時も幾度かあった。その度に自分と対話しなんとか持ち堪えてきたのだ。その辛さや強い感情を彼女の文章からもたくさん感じた。
また、人は自分の中の"普通"という基準に合わない他人を遠ざける性をもっている。どんなに頭で分かっていてもふとした行動に出てしまうことが自分にもあった。けれど自分がいつ"普通"をはずれ向こう側に行くかは分からない、そのことを忘れてはいけないと痛感させられた。
閉鎖病棟で「声を出す人」を向こう側として、声を出さない自分と分け、切り離そうとしていた医療従事者の人達の姿は、影を遠ざけようとしていたゲドのそれと重なるように思いました。(中略)
けれどその人の足元にも、日に照らされて濃い影が長く伸びている。その影からはどうか目を逸らさないでほしいのです。「声を出す人」は私の影、あなたの影、社会の影なのです。切り離せないものだし、向こうとこちらはいつ裏返ってもおかしくない。
著者とその家人はルチャ・リブロの場所としていわゆる田舎を選んだ。突拍子もない移住だと周囲に言われたかもしれない。
しかし彼女らは村になじみ交わっていく中で、過去と現在そして未来という時間の流れを身体で感じ、より本との親和性を深めていったように思う。
東吉野に越し、抗い難いほどの自然を前にして、私たちは早々にそれらと戦うことを諦め、むしろ混ざり合って一部になってしまうことを選びました。その結果なのか何なのか、ルチャ・リブロ分室は豊かな表情を見せ、本の中にある世界をより鮮やかに示し、深く読み、学ぶ環境を与えてくれています。
大脇さんの論考によると、杉皮葺きはカヤ葺きや檜皮葺きに比べるとかなり特殊で、通常の屋根葺き関係の書物で触れられることも少ないそうです。そうなると、益々この論考の有り難さが身に染みます。(中略)
白黒の写真にうつる杉皮葺きの屋根並は、実際に見たことがないのにひどく懐かしく、村の景色に馴染む美しいものとして私の目に飛び込んできたのでした。
地域の史跡や資料を読み解くことでその場所にこれまで暮らしてきた人々の生活の様子や町の風景がありありと想像でき、今の自分たちの在り方が分かるのかもしれない。そうやって地域の本を読むという行為をちゃんとしていることにとても感心した。
自分も、地元や住んでいる地域がどんな歴史をたどり今残っているものはあるのか、その大切さや美しさを感じたいと思った。
村の昔の様子を知るのは、本当に楽しいです。東吉野村の風景は確かに変化していますが、日々生まれ変わる街のそれよりは緩やかで、過去と現在の連続性を実感すると、現在と具体的な未来との繋がりをも意識しやすくなるような気がします。
自分はこの本を読むことでルチャ・リブロと繋がることができた。
本は自分にとっても「窓」であり、いつかそれを開けて豊かな緑に囲まれたこの図書館へ訪れたい。
出典:『不完全な司書』青木海青子 晶文社