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『敵』吉田大八~老いていくことの怖れと不安の滑稽さ~
画像(C)1998 筒井康隆/新潮社 (C)2023 TEKINOMIKATA
吉田大八監督は、朝井リョウ原作の『桐島、部活やめるってよ』(2012)で注目され、角田光代原作の銀行員の宮沢りえが横領事件を起こす『紙の月』(2014)、三島由紀夫原作で宇宙人たちの奇妙な話『美しい星』(2017)、山上たつひこ、いがらしみきお原作の『羊の木』(2018)など、原作モノの映画化が多い。この作品も筒井康隆原作である。脚本は吉田大八監督が自ら書いている。
前半は『PERFECT DAYS』のようなフランス文学の元教授である一人暮らしの老人の丁寧な日常が同じようにモノクロ映像で描かれる。朝起きて魚を焼いて朝食を作り、食卓で一人で食べ、歯を磨き、コーヒー豆を挽き、コーヒーを飲む。パソコンに向かって原稿を書き、時おり編集者から電話があり、宅配便の荷物が届き、洗濯をして庭に干して、衣服を畳む。箒で掃除をして、昼も夜も自分の食べる分だけを自分で作り、風呂に入り、酒を嗜みつつ食事を終える。焼き鳥や蕎麦、鍋など、どれも美味しそうである。77歳の渡辺儀助(長塚京三)は、預金残高と残りの人生の時間を計算しながら、老後の生活を慎ましく暮らしている。たまに依頼のある講演の講演料も一律10万円と決めている。「もっと講演料を安くして講演を増やせば?」と言われるが、10万円より安くはしない。教授だったプライドは持ち続けているらしい。そして「残高に見合わない長生きは悲惨だから」と友に語り、貧しくいじましい長生きはしたくないと思っている。
妻に先立たれ、祖父の代から続く日本家屋で暮らしている。その古い日本家屋の佇まいが美しい。一人朝食を食べるモノクロ画面のシルエット姿の光と影が美しく描かれる。何度もある食事シーンは、少しずつカメラ位置を変えながら撮られている。丁寧に料理を作り食べることは、彼の生き方そのものだ。ときには気の置けないデザイナーの友人(松尾貴史)と酒を飲み、編集者である教え子の女性(瀧内公美)が家を訪れ、食事をともにしたりする。もう一人の教え子(松尾諭)は、庭仕事の雑用を手伝い、庭の枯れた井戸を掘って地下水を汲み出して「来年はもっと美味しい麦茶を飲みましょう」と言う。そんな渡辺儀助の穏やかな日常が、妄想によって少しずつ脅かされていく。パソコンに「北から敵がやって来る」という不吉なメッセージが届くのだ。
<以下、ネタバレになります>
後半は筒井康隆らしい妄想が老人の日常をぶち壊していく。辛いキムチを食べたことがきっかけで血便が出て大腸カメラで検査をするのだが、女医の検査で四つん這いに縛られて尻からホースのようなものを入れられる妄想から始まり、教え子の瀧内公美と最終電車の時間を気にしながら慌ててセックスをしようとする妄想、妻も登場して一緒に風呂に入り「あなたはフランス文学教授なのに一度もパリへ連れて行ってくれなかったわね」と愚痴を言われたりもする。よく行っているバーで、仏文の女子大生(河合優実)から授業料の相談をされて金を騙し取られるエピソードもあるが、これは妄想なのか現実なのかもうよく分からない。そのバーが突然潰れ、女子大生と連絡が取れなくなり、友人の松尾貴史は病院に入院して重病人となり、「敵が来るから逃げろ」と言い出す。夜に何者かが庭に侵入し、死んだ妻(黒沢あすか)と教え子(瀧内公美)と編集者で鍋をつついていると諍いが起きて、編集者を瀧内公美が殺してしまう。その死体を井戸に投げ捨てるのだ。これは「夢だから大丈夫」と瀧内公美に伝えるが、彼女から「私を思いながら自分で(自慰)してたの?」だの、「学生だった頃にいつも狭い部屋に一緒にいさせられて、演劇に連れて行かれて食事をして、あれは教授の立場を利用してパワハラしてただけじゃない」などと過去を非難されたりもする。彼のささやかな楽しい思い出も否定されてしまうのだ。遺書を書いて自殺を試みるが、それも出来ない。そのうち、本当に敵が襲ってきて、銃で撃たれてしまうのだった。近所で犬を散歩させる女性の犬の名前が「バルザック」というのには笑った。遺言でこの日本家屋を維持して欲しいと、甥に託す。
老いていくことへの怖れ。健康状態や預金が減っていくことの不安。誰からも相手にされなくなっていくことの孤独と寂しさ。好意を寄せた女性からも裏切られ、愛して添い遂げたはずの妻も自分が思い込んでいただけかもしれないという妄想に駆られる。そんな不安や疑念が「敵」の襲来という妄想につながっていく。人の人生を覗く道具として双眼鏡が使われているが、人間は欲望や煩悩とともに双眼鏡のように人を勝手な思い込みで見ているだけかもしれない。「古い家」という場所だけが、自分たちを見守ってきた確かなものとしてある。筒井康隆らしいハチャメチャな原作だが、モノクロ映像の静かで美しい佇まいが、老人の孤独な寂しさをより浮き彫りにしている。妻のコートの臭いをそっと嗅ぐ姿が侘しい。これからどんどん年老いていく自分には、身に沁みるなぁ。長塚京三の真面目な佇まいがいい。
2023年製作/108分/G/日本
配給:ハピネットファントム・スタジオ、ギークピクチュアズ
監督・脚本:吉田大八
原作:筒井康隆
企画:小澤祐治
プロデュース:小澤祐治
プロデューサー:江守徹
撮影:四宮秀俊
照明:秋山恵二郎
録音:伊豆田廉明
美術:富田麻友美
フードスタイリスト:飯島奈美
VFXスーパーバイザー:白石哲也
編集:曽根俊一
音楽:千葉広樹
キャスト:長塚京三、瀧内公美、河合優実、黒沢あすか、中島歩、カトウシンスケ、髙畑遊、二瓶鮫一、髙橋洋、唯野未歩子、戸田昌宏、松永大輔、松尾諭、松尾貴史