小津安二郎の『晩春』~父と娘の愛を描いたなまなましい問題作~
画像(C)1949/2015松竹株式会社
あらためて小津安二郎の『晩春』を年の瀬に見直してみる。これは小津安二郎の作品の中で、いちばんなまなましい問題作なのかもしれない。娘役の原節子のあからさまな喜怒哀楽の表情は、小津作品らしからぬ抑制を欠いたものであるし、ストレートな父親への愛を表明している危うい父娘の愛の物語である。
原節子の結婚が決まって、父と娘の最後の京都旅行に行った夜の有名な「壺」のカットは、娘の父親への強い禁断的な愛を事物が静かに見つめ返すという小津的なショットである。父親(笠智衆)への愛を抑えきれない原節子は、最後の京都旅行での楽しさのなかで、再婚した小野寺の叔父さん(三島雅夫)と再婚相手の女性のことを「きたならしい。不潔よ」と以前に言ったことを反省し、「ねえ、お父さん。わたし、お父さんのこととても嫌だったんだけど…」と言いかけたところで、父親の笠智衆のいびきが聞こえ、会話は中断される。そのあとで、和室にあった壺がシルエットの障子の葉陰とともに2度ほど映し出される。そこには原節子の男女の性への忌避(父親の性を不潔と感じる気持ち)とそれを受け入れる心の葛藤があり、「壺」がその葛藤を受ける形で静かに提示されるのだ。それは、娘を嫁にやる男親の寂しさを笠智衆が三島雅夫に吐露する次のシーンの京都の寺の「石庭」だったりもするし、原節子が笠智衆の再婚相手と思われる女性(三宅邦子)に挨拶したことに動揺した能舞台のあとに映し出される「風に葉が揺れる木々」だったりもする。人間たちの心のざわめき、葛藤を静かに見つめる事物、その時間的な間合いとして、誰もいない廊下や花瓶や壺、不在の部屋、山々や海、あるいは煙突などが度々映し出される。それは小津映画の頻繁に挿入される事物・風景カットであり、そのカットにこそ小津的な間合いの映画の特徴がある。
この『晩春』における能舞台観賞の場面は長い。とても重要なシーンとして機能している。それまで親子二人で観賞していただけに過ぎない能舞台のシーンが、三宅邦子の存在を知ってからの原節子の動揺と落ち込みの表現は、かなりあからさまに描かれている。それを描くためにこの長さが必要だったのだろう。冒頭のお茶会とともに能舞台の様式性と振る舞いは、人間の心の動揺と相反する形、様式的で静的なのである。だからこそ、事物の静的な存在も含めて小津映画には重要なのだ。その後の笠智衆の「飯でも食って帰るか?」という誘いに、原節子は「わたし、用事があるから」と言って一緒に歩くことを拒み、小走りに道の反対側へ移動し去って行く後ろ姿は、子供じみた振る舞いでさえある。それだけ父の再婚相手と思われる三宅邦子に嫉妬し、叔父の再婚を「不潔だ」と言い放ち、京都旅行の最後にも再び、「わたし、お嫁に行かなくてもいい。このままお父さんと一緒にいたい」とわがままを繰り返す娘は、性的にも未熟で父親への愛に依存しているのだ。
笠智衆の悪ダチ3人組なども描かれないこの『晩春』においては、ストレートに父と娘が向き合ってしまっているのである。だから、父と娘の「愛」がなまなましい形で表出してしまうのだ。最初の方に、原節子と父の弟子のような服部(宇佐美淳也)という若い男性とサイクリングで浜辺を走る青春映画のような場面がある。原節子が明るく生き生きと描かれている。原節子と宇佐美淳也は恋愛関係に発展するのかと思われたが、宇佐美淳也にはすでに婚約者がおり、「沢庵とヤキモチ」の話を二人でしながら、原節子は宇佐美淳也のクラシックコンサートの誘いを拒否する。原節子には、人生を諦念とともに送らざるをえない仕掛けが前段にあるのである。能舞台にしろ、コンサートにしろ、二人で観賞することは男女において特別なことなのである。だから、隣の席が不在であることをわざわざ小津は描くのだ。
この映画は、原節子が婚約した相手さえ一切登場させず、お見合いシーンも、結婚シーンも、新婚旅行に出かけた列車のシーンも一切描かれない。物語の肝心なことは描かれない。狭い限定された空間を徹底して描くのが小津映画である。そして、小津映画でいつも描かれるのは、娘が結婚して家を出て行った後の娘が不在となった空っぽの家なのである。一人笠智衆のリンゴの皮をむく手元が陰影とともに描かれ、夜の海の波で映画は終わる。
笠智衆が「一生一回限りの嘘だったんだ」と言って再婚するつもりはないことを娘の友達のアヤ(月丘夢路)といつもの店のカウンターで酒を飲みながら話をしている場面が最後にある。「おじさま、ステキ」と言って月丘夢路が笠智衆のおでこにキスをする場面がなんとも微笑ましい。それにしても、神宮の境内でお財布を拾って「縁起がいい」とか言って、警官が来ているのにさっさと走り去っていく杉村春子のキャラクター造型が素晴らしい。杉村春子にしか出来ない名脇役ぶりであった。
<追記>
この『晩春』には、方向感覚を惑わせるようなイマジナリーラインを越えるカットがいくつかある。カメラ位置がラインを越えているため、相対する二人の顔の向きがつながりで反対になるのだ。最初の電車の座っている笠智衆の顔の向きと立っている原節子の車内の会話の後に列車の走りカットがあり、次のカットでは座っている2人の横並びカットになっていて少し顔の向きに違和感がある。また、銀座の街角で原節子が叔父さんの三島雅夫と出会って会話するシーンも最初の出会うカットと話をするカットのカメラ位置は反対側だ。別のシーンで、三島雅夫が鎌倉の家に来て笠智衆と話をするとき、「海はどっちだ?」「八幡様は?」「東京はどっちだ?」「東は?」と二人が指す方向がまったく合わない奇妙なシーンがある。正面の切り返しショットも、ときどき違和感を感じるときがあるが、小津にとっては方向などどうでもいいのであろう。そのカメラのショットが映像的に決まっているかどうかが大事であり、向きや方向の感覚はどうでもよく、茶化しているようなところがあるのも特徴であると付記しておく。
1949年製作/108分/日本
配給:松竹
監督:小津安二郎
製作:山本武
原作:広津和郎
脚本:野田高梧 小津安二郎
撮影:厚田雄春
調音:妹尾芳三郎
録音:佐々木秀孝
照明:磯野春雄
美術:浜田辰雄
編集:浜村義康
音楽:伊藤宣二
キャスト:笠智衆、原節子、月丘夢路、杉村春子、青木放屁、宇佐美淳也、三宅邦子、三島雅夫、坪内美子、桂木洋子、清水一郎、谷崎純、高橋トヨ、紅沢葉子
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