何もかも憂鬱な夜に
いつだったか古本屋で手に取った小説。眠れない夜のお供にしようと思っていたけれど、鬱屈とした気持ちの時は本を読む気力がなくて。なんだかんだ枕元に置いたままになっていた。
ないはずの記憶が掘り起こされるかのような読後感。幼い頃の私が周囲のおとなたちに無慈悲に見詰められ、好き勝手に分析されている。何も掴むものがない。深淵。どこか私を縛り続ける加虐心。醜い自分。
大抵の本では、大抵の場合、誰かが死んで、誰かはセックスをしている。この本も然り。生を物語る上で不可欠な事象であるということなのだろうと思う。そのくせ、日常ではタブー視されるそれら。センシティブだと隠されるほどに歪んでいく。
いつだったか、それこそ幼い頃、自ら終わらせることのできない人生がスタートしていることに気がついた瞬間、私は泣いた。最初で最後の絶望だったかもしれない。同時に、死は必ず訪れるという希望でもあった。終わりがあるという光。セックスの概念を知るのはその後だった気がする。
公に言及すべきでないとされているものが、生の必須事項である事実。誰からも教わらないから自ら概念を形成していくしかない。そして、歪になった頃に露呈される。
死と生と欲情と不安。
作中に芸術作品に触れることに際して「自分の好みや狭い了見で、作品を簡単に判断するな」という台詞が出てくるのだけれど、ここまでページを捲っておきながらおまえは大丈夫かと見透かされた気がした。自分の限られた知見や無意識の偏見が鬱陶しい。物語をその範囲内に沿わせる形で捉え、すべてが誤読であるように思えてならない。
でもきっと、
何かを、誰かを、断罪する物語ではない。
どんな夜だろうとなんとか超えていきたいと思えた。
今夜も静かな夜ですね。いい夢を。
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