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生涯ベスト2:物語へ至る道

もし人生に2冊だけ選べと言われたらこの2冊だと思う本があります。

本は若い頃からずっと読んできて、心に残るたくさんの出会いがありました。だから順序をつけるなんて出来ない。

でも “特別な本” を選んでごらん、と言われたら、この2冊を選びたいと思います。

星野道夫 著 『ノーザンライツ』

パール・バック著 『母の肖像』


ノーザンライツに出逢ったのは、たしか表参道にある大きな本屋さんでした。
仕事帰りの夕方に立ち寄ったお洒落な本屋さんの、レジ前一番目に付く場所に平積みされていました。

美しい装丁とタイトル、“彼らはオーロラをノーザンライツ(北極光)と呼ぶ。星野道夫はこの遺作のなかで生きている。” という帯の言葉に惹かれて手に取ったことを、まるでついこの間の事の様に思い出します。

1997年は、私にとって看護婦1年目の忘れられない年。まだ“看護婦さん”と呼ばれていた時代に、新人看護婦として上京した、21歳になったばかりの頃でした。

それが星野道夫さんの最後の著書 との出逢いでした。そこからずっと一緒、国境なき医師団でのアフリカのミッションへも持って行きました。
再読は数回ほどですが、そばに置いておきたくて、ただ身近にあれば安心する気持ちになりました。

自分にとって全く未知な、アラスカのフロンティア時代の物語。
人々の記憶から消え歴史に埋もれる運命だった物語が、日本語で記され残されていることが奇跡のように感じられました。

星野さん自身は経験出来なかった時代。
しかし彼はその時代を知る人々と交流し、直接話しを聴くことが出来ました。当時を知るアラスカ先住民の長老や、フロンティア時代に入植した白人達...皆、名もなき市井の人々です。
ある時代を懸命に生きた人間の人生の物語を星野さんは丁寧に掬いとり書き綴りました。

星野さんは何処かで、それを「自分は間に合ったのだ。」と書かれていたのが印象的でした。

『ノーザンライツ』に納められている「幻のアラスカ核実験場化計画」については、それまで全く聞いたことがなかった恐ろしい話が、本当に実現する危険性があったということを知りました。

自分が知らない世界を描いたこの本は、若い私に人生の深さと奥行きを教えてくれたのです。

そしてそれが“星野道夫さんの遺稿”であったことも何か深淵なものを孕んでいる気がします。
物語を留めたその人が、もうこの世界にはいないということが、人間が限りある人生を懸命に生きることの証のような気がするのです。


幼き頃のシリアとジニー
ノーザンライツ


物語の主人公の一人で、星野さんの古い友人が、急逝した彼の代わりにあとがきを書かれています。

ミチオとの旅 シリア•ハンター

アラスカのシーンジェック川をのんびりと旅した話の結末は、私たちの最良の友ホシノミチオが亡くなってしまったために、残念ながら私が書くことになってしまいました。

(中略)

その夜は雨でした。朝になると、連なる丘の東側の方に、雲が低く垂れ込めています。とても飛行機が飛んでこられる天候ではありません。雲が晴れるまで待たなくてはなりません。ミチオはそれまではすっかり大自然の世界に浸っていたのですが、突然、不安そうに、ソワソワし始めて、家に帰りたがりました。フェアバンクスで彼の帰りを待っている奥さんのナオコや、二歳になる息子のショウマに早く会いたいと思っていたのです。

(中略)

ジニーと私は、今でも、あの不思議な旅のこと、そしてあのような素晴らしいプレゼントをしてくれた、穏やかで、思慮深い男のことを思い浮かべます。自分のスピリットを自然界の鼓動に共鳴させていた男、それがミチオでした。
彼は大地と一体になり、そこに暮らす動物たちと一体になっていました。ミチオのおかげで、私たちは、人間の生活と共にある野生の役割、そしてその存続が人間に必要であるということを、理解することができるのです。
1996年8月13日 シリア・ハンター


2007年だったと思いますが、星野道夫さんの回顧展に行く機会がありました。そこには奥様である星野直子さんが来られていました。

どうしても一言お伝えしたくて思い切って声をかけました。

「アフリカへも星野さんの本、ノーザンライツを持って行きました」

「星野さんから人生における大切なことをたくさん教えて頂きました」

ドキドキ緊張しながら精一杯の想いをお伝えすると直子さんは、とても嬉しそうな笑顔で「そうですか」と仰られ少しお話をすることが出来ました。

物腰の柔らかな凛とした雰囲気の女性でした。
星野さんが亡くなられても、ずっと星野道夫さんの妻なんだ...と当たり前のようでいて、決して当たり前でないことを感じました。



『母の肖像』に出逢ったきっかけは友人の本棚でした。
あれは確か2013年、本棚に並んでいたパール・バックの大地を借りて読み、この物語を生み出した作者本人に興味が湧きました。

何故にアメリカ人が中国を舞台にした物語を書いたのだろう...?

パール・バックの人生を紐解くうちに見つけたのが『母の肖像』でした。

宣教師の父について中国へ渡った実母の一生を、バックは祖父母の時代のオランダまで辿り描き出して行きます。
客観的で冷静な文体で、しかし母への深い理解と愛情の眼差しをもって母の壮絶な一生を描き切った類稀なる物語です。

バック自身の意志の強さはまた、前時代に中国という大陸で生き抜いた母親の強さでもありました。
バックの母は、当時の中国という国で起こっている現実に正面から向き合い、人々を現実生活で救う道を選びました。彼女にとって宗教は「実践」するものでした。
祈りと布教に命をかけ世俗に疎い夫とは対照的な生き方へと変わっていかざるを得なかった母の人生をバックは俯瞰の眼差しで描き出しています。

私はこの本から、宗教とは何か?人間が生きるとはどういうことか?を教わったと思っています。
この女性の生き方を知ることは、何かに導かれた様な深い啓示にも感じられました。
そこに、私がずっと知りたかったことが書き切ってある気がしたのでした。

あとがきを読んで、この本が訳者である村岡花子さんにも大きな影響を与えたことを知りました。

あとがき

「母の肖像」は1936年に刊行された
“The Exile:Portrait of an American Mother” の全訳である。

(中略)

火のような激情ときびしい克己主義との相克が生涯この母をえものとして離さなかった。四十年にわたる人生行路を共にあゆんだ良人おっととさえも心がへだたってゆくさびしさを身にしみじみと味わいつつも、彼女は決して不平を洩らさなかった。

「子供たちこそ私の最大のロマンスだ」と昂然と言い放って四十年の結婚生活の労苦に耐えたこの母の一生の希望と夢のすべてを子供の上にかけた。
異邦の民の霊魂を救うことよりほかには考えることを持たなかったような、人間ばなれした良人によって、七人の子らを生みながら三人しか育たなかった。異国に働く宣教師の生活の困難と不自由が直接間接の原因となって四人の子供たちの生命は奪われたのであった。

パール・バックがあくまでも透徹した愛情と理解の眼をもって人間としての母を観察し、安易な肉親的感傷に囚われない、それゆえにこそ最高度の真実性を持つペンで、描きあげたこのすぐれたアメリカ女性の肖像は、かつてニューヨーク・タイムズ紙が評した如く、「いかなるフィクションにも負けない迫力で読者の心を魅了する。読者は深いあわれみに心をかきむしられる如くに感ずるけれども、これは決して悲劇ではない。これはアメリカの抒事詩でありしかも現代における最も崇高な叙事詩の一つである」

(中略)

「母の肖像」は今日までに私が読んだあまたの書物の中で最も強い感動をもって読み終えたものの一つであり、長いあいだの愛読書である。
1957年2月1日 村岡花子


本は「いつ」「どこで」「どういう状況」で読んだかも、その本への印象に影響するものだと思います。
私が『母の肖像』を読んだのは、2014年春に南部アフリカ5600キロを旅した時でした。
ドイツ帰国後、メンターでもあるO先生へ送ったメールがあります。

訳者はあの村岡花子さんで文体がとてもよかったです。少し前に母から、著書「アンのゆりかご」を譲られ読んでいましたので、(母の肖像の)日本語訳が村岡花子さんだと分かって感激しました。
翻訳ものは、訳者の力量が大きいですよね。

「母の肖像」は、もちろんバックの作品ですが、訳者の想いも伝わるようで、小さい字で決して読みやすいものではないはずなのに、惜しみながら読みました。

(中略)

「母の肖像」本当に本当にこの旅に持っていってよかったです。今まで読んだ本のなかで最も感動したものの一つかもしれません。

中国伝道を天命とした宣教師の夫について、40年間中国に暮らし、その間に4人もの子を失い、自身もまた中国に永眠した人生をバックはその祖父の代から遡り描き出しています。

女性に生まれたというだけで、自分の人生を生きられない時代に、それに反抗し懸命にまっすぐに生きた、生きようとした女性の人生に触れ、様々なことを感じました。
そういう時代がついこの間まであったこと...。

娘として、母の人生をそこまで徹逸した目で描くことは容易なことではなかったと思いますが、感傷的にならずけれど、読む者を静かに揺すぶるようなタッチで書かれています。

自分自身のことを思い返せば、私はいつも自分の夢を追いかけて先ばかり見て生きてきたように思います。
現在に目を向け「いまを生きる」こと、3人もの子の母親だという現実を受け止め、親として子にきちんと向き合っていこう・・・ということを旅の間中考えました。
自分が追いかけて来たものと、自分自身がやっと重なった感じがしています。
2014年春 O先生へのメールより

Pearl Sydenstricker Buck
1892-1973


パール•バックがどの様な人生を歩んだ人物であるかは、日本ではあまり知られていません。

1892年6月26日、両親がアメリカに一時帰国している時にウエスト•ヴァージニア州で生まれました。両親と共に生後3か月で中国(鎮江)に戻り、中国語を身につけ「東洋的精神を自ら培った」と言われています。

バックには一人娘がいますが、この娘さんは重い知的障害を抱えていました。

(注: 先天性代謝異常であるフェニールケトン尿症だったといわれてる。現代では新生児マススクリーニングにより発見され早期に治療を受ければ発症を防ぐことが出来る。)

ピュリッツァー賞(1932年)とノーベル文学賞(1938年: 米国の女性作家としては初)を受賞した代表作「大地」は、施設に預けた娘が生涯お金の心配がない様にと、書き始めた小説でした。
延べ年数40年余りを中国で過ごした後、後半生を社会平和活動に捧げました。

1960年の来日では、講演で「文明の程度は、それが弱い人、頼るところのない人をどのように尊重しているかによって測られるのです」と述べられました。

長くなりましたが、最後にパール•バックの本をもう一冊だけご紹介して、この本を巡る旅を終わりにしたいと思います。

わたしがこの話を書く決心をするまでには、ずいぶん長い間かかりました。
これから書こうと思っていることは本当にあった話なのです。
それだけに書くことがためらわれたのです。

という書き出しで始まる『母よ嘆くなかれ』

ここに引用は控えますが「長い悲しい旅」の果てに起こるある医師との出逢いと、そこへ至るまでの描写は、真実に向き合う事の難しさと、人と人が真に向き合うとはどういう事なのかを教えてくれます。
それは忘れられない場面として、私の心にも何かを深く残しました。

この本が書かれたのは1950年、今から70年以上も昔のため、今の時代にそぐわない解釈なども見受けられますが、それを差し引いても読み継がれていくべき勇気ある啓蒙の書であることは間違いありません。

さいごに

自分の中で「本のランキング」は出来ないと思ってきましたが人生の後半戦になり、大きな影響を受けた本と、自分が大切にしている夢のような部分を支えてくれているこの2冊について、自分なりの言葉で纏めたいと思いました。

noteに書くことが出来て良かったです。

長い記事を読んでくださり有難うございます。

なお『母の肖像』は残念なことに絶版になっていますが、Amazonなどで中古で手に入ります。 
文字が激小で読み辛いですが、一人でも多くの方が興味を持って手に取ってくださったら本当に嬉しいです。




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