「管理社会の息苦しさ」の程度について、「箱根の関所」で考えたことがある。
神奈川県の箱根は首都圏の観光地としては、かなり人が来るところで、新宿からロマンスカーに乗っても行けるから、思った以上に馴染みが深い。
だから、何度も行っているはずで、そして、その実際に出かけている回数以上に行った気になっているから、いつのことかよく覚えていないのだけど、箱根の関所のことは、変に印象に残っている。
「入り鉄砲と出女」
箱根の関所は、その建物の中には人形があって、「入り鉄砲と出女」みたいな言葉も再確認できる。
それは、江戸幕府からの視点の言葉で、江戸に向かう鉄砲は、幕府に対しての脅威が近づいている証であり、江戸から地方に向かう女性は、江戸に住んでいる各藩の大名の奥方の逃亡の可能性があるから、ということで、ことさら厳しく調べられたらしい。
考えたら、江戸に入る交通網に監視小屋を作り、通行する人全部を調べ、その中でも、江戸幕府という権力の中枢の危機につながることを2つに絞って、それを格言のようにして、「イリデッポウとデオンナ」という、なんだか覚えやすい言葉にしてしまえば、嫌でも関所に働く人は強く意識する。
そして、江戸に各藩の奥方を住まわせるということは、露骨な言葉で言えば「人質」であって、それは、おそらく参勤交代という、各大名にお金を使わせることを義務化する口実の一つにもなると思うと、江戸時代の支配体制は良くできている、といったことを、こうした観光名所でも感じる。
ただ、それは、前もっての知識を確認するような作業でもあった。
箱根の関所の牢屋
何回めかの箱根の関所に行った時に、何度か来ていると、建物の中の人形を見て、あーいたいた、みたいなちょっと慣れたような、すれたような視線で見るようになってしまっていたのだけど、その時は、ガイドのような人がいて、説明をしてもらった。
外へ出て、ほとんど外部のようなところに牢屋みたいな場所があって、なんだろう?と思っていたら、ガイドの人が説明をしてくれた。
そこは、実質的にはほぼ使われていませんでした。それは、軽い違反のようなことなら見逃されていたから、のようです。
今になってみれば、記憶ははっきりしないのだけど、そんなようなことを聞いた印象がある。
その時に、江戸時代の管理の厳しさについて、今までと違うイメージが湧いた。
意外と管理が緩かったのではないか、もしかしたら、見方によっては、場所によっては、今より自由かもしれない、と思ってしまった。
江戸時代の管理社会
もしも、現代に、こうした場所に牢屋があって、ほぼ使われていない、という状況があったとしたら、そこの責任者は「どうして使われていないのか」といった「中央」からの問い合わせがあり、場合によっては厳しく責任を問われることになるから、軽微な違反であっても、きっちりと罰し、牢屋に入れると思う。
そうであれば、完全に根拠のない想像なのだけど、例えば通行手形がない時も、そこを監視している人に賄賂を渡し、通してもらう、といったことが日常的になっていなければ、牢屋が使われない、という状況は理解しにくい。
江戸時代は、士農工商という身分がはっきりしていて、切り捨て御免、というようにいきなり命を奪われるようなルールもあって、支配階級である武士は、刀という凶器を常に持っているような時代だから、とても息苦しい管理社会ではないか、という印象だったのだけど、関所の牢屋が実質的に使われていなかった、ということが史実だとすれば、実は、思ったよりも、管理がゆるいのではないか、と感じた。
それは、賄賂でなんとかなるようなことも思ったよりも多いから、どちらにしても貧乏な場合は不自由なのかもしれないが、それでも、権力からの管理は、徹底的にルールに厳しいわけでもなく、かなり裁量に頼る部分が多いということになるのだろう。
だから、江戸時代の管理については、地元の権力者への意識は強いけれど、特に江戸から遠くなるほど、幕府の将軍は存在が遠く、ほとんど自分とのつながりは感じられないから、国家権力的なものを意識するのは難しいのではないだろうか。
中央権力へのファンタジー
ただ、関所の管理が緩いということは、その場所の権力者の気持ち次第、という部分があるから、その権力者がとんでもなくひどかったら、急に地獄のようなことになる。
だから、ドラマとして長く続いた「水戸黄門」のように、地元の悪代官はどの場所でも存在していることになるし、そこに中央の権力者が来て、正してくれる、というファンタジーを抱いてしまうのは、それだけ、幕府という権力が遠いからかもしれない。
それでも、もしかしたら「管理されていること」を感じる機会は思ったよりも少なく、息苦しいかどうか、と言えば、今よりも権力の管理を意識する度合いは低く、だから、寿命は短く、病気も多く、いつ死ぬか分からないけれど、その時代に生きる人は、気持ちの部分では、思ったよりも自由だった可能性もある。
(幕末に外国人が入国するようになり、その目を通して、日本人の姿が描かれていて、それはとても理想的な穏やかな人々、ということを書いた本を読んだ気がしたのですが、書名も忘れてしまいました。すみません)。
もちろん、今では考えられないような理不尽な出来事も多かったと思われるが、江戸幕府が約300年ほど続いたのは伊達ではなく、もしかしたら、部分的には、庶民にとっては、一種の理想的な統治と言われる「鼓腹撃壌」のような状態もあったのかもしれない、と想像する。
鼠色と茶色
江戸の町人たちは茶色や鼠色といった暗い色のなかに繊細微妙なこだわりを取り入れることにより「四十八茶百鼠」と言われるほどの多様な色を生み出しました。特に茶系統と鼠系統の多彩な色合いとその都度つけられる新しい「色名」が次々と生まれました。
何度も、贅沢を禁止されるという理不尽があったにしても、それに対応するように一見地味な、鼠色や茶色に微妙な違いによって、「おしゃれ」にしていたりする歴史があった。江戸幕府も、その鼠色や茶色の豊富さに対してまでは罰していないから、見逃しているというか、管理の度合いを知っているということかもしれない。
それでも、それだけの微妙な違いを楽しめるというのは、そこだけに注目すれば、とても豊かなことではあると思う。
例えば、歌舞伎も、贅沢禁止ということには関係していたのだろうけど、そのためか、緞帳の色も一見地味に見える色の組み合わせで華やかさを出す工夫をしているように思える。
歌舞伎のあり方
こうした書籍によると、演目そのものも「時事的」なことを扱うのは禁止されていたから、あくまでも昔のことを扱っています、という形をとりながらも、観劇した人間にとっては、時事的なアレだとすぐに分かるようにしている、ということのようだった。
だから、本当に管理を厳しくしようとすれば、そこまでも禁止すると思われるけれど、それは野暮だから出来ない、それ以上管理すると反発が大きすぎる、と権力側が考えていたとすれば、そこには思ったよりも管理の「ゆるさ」が感じられる。
もしかすると「管理社会の息苦しさ」は、今から想像するよりも、ずっと少なかった可能性もある。
現代の管理社会
自分の言動や行為がどれだけ把握されているのか。
「管理の息苦しさ」は、もしかしたら、その程度によって変わってくるのかもしれない。
少し昔の全体主義の社会のように、立ち話程度の政府への悪口が、いつの間にか警察などに通報されている、という状態は、とんでもなく息苦しく、自由を感じられなかったと思う。
そうであれば、それほど管理がされなかった、というよりは、物理的に管理が出来なかった昔の方が、「管理の息苦しさ」は少ない可能性があるとすれば、その管理の徹底は、これからやってくる可能性はある。
アルゴリズムが私たちを非常によく知るようになると、独裁政権はナチス時代のドイツのものさえ凌ぐほどの、国民に対する絶対的な支配力を獲得しうるので、そうした政権への抵抗は完全に不可能になりかねない。政権は、あなたがどう感じているかを正確に知るだけではなく、何なりと望みどおりのことをあなたに感じさせることも可能になりうる。
これはテクノロジーの発達によって、「ビッグデータがあなたを見守っている」状態でもあるのだけど、支配の徹底は完璧になると、逆に「息苦しさ」を感じなくなるかもしれない。あまりにも自然に監視や管理をされていると、それは日常になって、もしかしたら、急に管理体制からの介入や逮捕のようなことが行われるまでは、(表面上は)自由な感覚でいられるのかもしれない。
意識調査では、「様々な場面で防犯カメラがついていると安心するか」という問いに、8割が「安心する」と回答した。防犯カメラによって見守られ、犯罪が抑止される安心感があるようだ。
監視カメラによって、結果的には自分も監視されているにも関わらず、その自由の減少よりも、安心する、という感覚が強くなってきているようだ。それは、「管理される息苦しさ」よりも、「監視される安心」な感覚の方が一般的になってきている可能性まで感じられる。
コロナ禍での管理
新型コロナウイルス新規感染者の急増を受け、ロックダウン(都市封鎖)を可能にする法制度を日本でも導入すべきだとの声が専門家や自治体の間で強まってきた。現在の枠組みでは限定的な強制措置しか取れず、感染拡大に歯止めがかからないとの焦りからだ。
このニュースは、感染拡大の2021年の8月で、現在は、新規感染者の数から言えば、この時よりも劇的に新規感染者が減少したわけでもなく、2022年になってからは、はるかに新規感染者数が多かったものの、すでにロックダウンの話題は聞くことがなくなっていた。
それは、戦争が始まったりと、さまざまな大きな変化があったせいと、相変わらず高齢者や持病のある方々には命の危険があることに変わりはないものの、そうでなければ、感染しても軽症で済む、という「常識」(?)が定着したせいもあるのだろう。
そんなことを含みつつも、コロナ禍以来、感染を防ぐためには、自由を犠牲にしてもいい、という主張の方が、優勢な印象が続いてきた。
もしかすると、監視カメラの増加に関して、自由が犠牲になる、というよりも、安心する、という感覚が上回っているように、「管理の息苦しさ」を感じる地点を通り過ぎてしまい、「管理が日常」になってしまっているので、監視や管理に関しての感覚が変わりつつある歴史的な特異点にいる可能性まである。
だから、あり得ない空想をすれば、江戸時代の人たちが、現代に来たら、なんだか、こっちの方が、なんとなく息苦しくないか、と言われてしまうのかもしれない。
21世紀の格差は、フランス革命の頃よりもひどいかもしれない、という話をどこかで読んだ気もするし、もしかしたら、知らないうちに、歴史は進まないで、戻っている可能性まである。
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