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「選挙に行かない人」が、「選挙に行く人」に変わることはあるのだろうか?

 話題になったとしても、すぐに昔になり、忘れられてしまうのだけど、少し前に政治に関する、ある俳優の発言が、やや炎上したことがあった。

 石破内閣について取り上げた。出演した笠松は「僕は政治は全く詳しくない」と告白。新内閣の人事やポジションについて「目的がずれているというか。良い場所にいるための話し合いであって、へぇ~って感じ」と笑い、「知らない漫画の13巻から出てきたキャラクターたちがこんなのやってるけど、誰だ? っていう。もちろん、知ってますよね、皆さんは。僕はちょっと勉強不足で…」と率直に明かした。

(『日刊スポーツ』より)

 ここまでだったら、おそらく、批判されることもないはずだった。

(※今回は、1万字をこえる長めの記事になってしまいましたが、投票日が迫っていることもあり、前編と後編に分けることはせず、一挙に投稿します。読みづらいかもしれませんが、よろしくお願いします)。


「政治的ニヒリズム」

 だが、さらに質問されて、話は続いた。

 フリーアナウンサーの豊崎由里絵は「おっしゃることはわかりますけど、この後、選挙あるので。この人が今後どういうことを計画していることを見ておかないと、選挙行動に結びつかない」と説明するも、笠松は「でも、何か良くなったか、悪くなったかっていった時、よくなってないが何年も続いているわけですよね。もちろん良くなっているところもある。じゃあ見てても見てなくてもそうなるんだったら。他のことやった方が、と思ってしまう」と政治に関心が薄いことを明かした。

(『日刊スポーツ』より)

 これは、政治に関心が薄いだけのことではない気がする。

 その後も笠松は、「結局、入れたい人に入れたって、やってくれないでしょ。期限も決まってなし、言いたい放題だし、誰になっても同じだし、ぶっちゃけ誰になっても同じ」と持論を展開していた。

(『日刊スポーツ』より)

 こうした発言は、有名無名に関わらず、あちこちで聞かれてきたようにも思うし、同時に、こうした「思想」は、もしかしたら常識のようになっているようにも感じる。

 誰が首相になっても同じ。
 自分が投票しても、何も変わらない。

 そうした言葉は、この何十年で何百回と目にしてきたし、耳に入ってきたはずだった。もしかしたら、メディアでも意識して取り上げてきたかもしれない。

 ニヒリズム(虚無主義)の意味をまとめると「物事の意義や価値は存在しない、自分自身の存在を含めてすべてが無価値だ」ということです。もっと簡潔にすると、ニヒリズムは世の中のすべてを否定します。つまり「すべてどうでもいい」という考えです。
 ニヒリズムを日本語に置き換えると、「虚無主義」という言葉になります。虚無には、この世のすべてに価値や意味がなく、むなしいことという意味があります。キリスト教への批判の思想とも言われています。

(『マイナビニュース』より)

 だから、今回の俳優の発言も「政治的ニヒリズム」といっていいのかもしれない。そして、今の日本を生きていれば、そういう考え方になっても仕方がないのではないか、とも思える。

失われた30年

 バブル崩壊後、日本は長い低迷期に入って、それは最初は「失われた10年」と言われていたが、そのうちにその期間は伸びて「失われた30年」と言われるようになった。

 バブルが崩壊した原因やその責任を問われぬまま、失われた30年が過ぎてきた。自民党政権がやってきたことを簡単に総括すると、景気が落ち込んだときには財政出動によって意図的に景気を引き上げてリスクを回避し、その反面で膨らむ一方の財政赤字を埋めるために消費税率を引き上げ、再び景気を悪化させる……。そんな政治の繰り返しだったと言っていい。

 2012年からスタートしたアベノミクスでは、財政出動の代わりに中央銀行である日本銀行を使って、異次元の量的緩和という名目で、実際は「財政ファイナンス(中央銀行が政府発行の国債を直接買い上げる政策)」と同じような政策を展開してきた。政府に逆らえない中央銀行総裁が登場したのも、日本経済の「失われた20年、30年」と無縁ではないだろう。
 実際に、近年の日本の国際競争力の低下は目に余るものがある。

 生産能力は低下する一方であり、加えて少子高齢化が顕著になってきている。新しい価値観をなかなか受け入れない国民や企業が蔓延し、失われた30年が過ぎたいま、日本はこれから失われた40年、あるいは失われた50年を歩き始めているのかもしれない。

(『東洋経済』より)

 そして、この30年が「失われた30年」ということを実感できるのは、経済政策という大きな話よりも、こうした実質賃金の国際比較(↑)を目の当たりにする時のような気がする。

 「G7」は、先進国といわれる7つの国で、いってみれば世界のトップ7と自他ともに認めるグループのはずだ。そして、日本以外のイタリアを除いたイギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、カナダは、すべて実質賃金も上がっている。

 日本は、ずっと上らないままだ。

 他の国も、同じように賃金が上がらなければ、世界的な経済状況で仕方がないと思えるけれど、GDPのランクでも、日本より下になるような他のG7の国も実質賃金が上がっているとすれば、こうした状況を招いているのは、日本の政策と無縁とは思えない。

 だから、本当であれば、政治は「誰がやっても同じ」ではないのだろう。

 ただ、この「失われた30年」は、ほぼ同じ政党(自由民主党・公明党)が日本の政策を担当してきたし、この状況は、その政党に責任があるのではないかと思っても自然だとも感じるが、一方で、他の政党が政策を任された期間も短すぎて、その成果が出る前に、元の政党に戻ってしまったようにも思う。

 でも、冒頭の政治に対しての発言で話題になった俳優は31歳だから、この「失われた30年」(この時に生きてきた人にとって、そのラベリングは不快だとしても)しか知らなくて、同時に、政治に関して多少の理解ができるのが10歳頃だとすると、この20年は、途中で、それまでとは違う政党が政権を握ったけれど、何も変わらないまま、元に戻った。
 そして、それから同じ人が首相を勤める期間が長く続いた後、何人かが首相になったが、大きく変わることなく、ずっと下り坂の時代が続いている。だから、政治に関心を向けている暇があったら、自分が生き残るための努力をした方がいい。

 そんな印象なのかもしれない。

 だとすれば、「失われた30年」以前の時代を知っている人よりも、政治には何も期待しない。誰がやっても同じ。だから、投票にも行かない。行くだけムダ。誰に入れても何も変わらない。そう思っても仕方がないし、だから、「失われた30年」は続いてきたし、これからも下り坂になっていく悪循環になっているのだとは思う。

「自分の一票が有効になるとは思えない」という無力感を抱きながら、それでも選挙があれば、必ず投票に行くようにしてきた私でも、今の状況が、何かいい方向に変わっていくような期待を持つことはなくなっている。

 だから、投票に行っていたとしても、自分自身も「政治的ニヒリズム」と無縁ではないのだと思う。

「悪夢の政権」という呪文

 民主党政権になったのが2009年で、今から15年前。その期間は3年3ヶ月。その後の10年以上、自民党と公明党政権が続いている中では、その民主党の時代のときの、具体的な出来事でさえも記憶が薄れていってもおかしくない。

 さらには、その個々の具体的な検討の前に、「悪夢の民主党政権」という言葉だけが印象に残っているようだ。

 民主党への批判と言えば、安倍晋三元首相が好む「悪夢の民主党政権」がある。
「何がどう悪夢だったんですか」と質問したら、安倍元首相は「すべてが悪夢だった」とでも答えるだろう。
 この民主党への「悪夢」呼ばわりほど、中身のない批判はないが、それゆえにか拡散している。
 安倍元首相の、イメージ戦略はなかなかのものだ。

(『現代ビジネス』より)

 この記事では、安倍元首相が言うほど、民主党政権がひどかったのか、という検討を行っているが、何しろ「悪夢の民主党政権」と安倍元首相が繰り返したことによって、細かく具体的な検討の前にイメージとして定着してしまっている。

 だから、今の自民党と公明党の政権がひどいとしても、別の政党が政権を握ると、もっとひどいことになる、という、それが事実かどうかの前に、感覚的な印象になっている。

 誰にとって民主党政権が「悪夢」だったのかといえば、安倍元首相にとっては、民主党の政治が国民のためになるかどうかの前に、首相までつとめたあとに、自身にとっては初めて野党議員になってしまったのだから、「悪夢」に間違いはない。

 だから、その言葉を裏付ける冷静で具体的な検討はなかったとしても、その言葉を支える思いは本気だったから、それなりに力があったはずだ。

 だから、定着してしまったのかもしれない。

 だが、この「悪夢の民主党政権」というイメージも、政権交代自体も無意味ではないか、という「政治的ニヒリズム」を強化しているように思う。

学習性無力感

 現在の日本という国は、「政治的ニヒリズム」という思想的なことよりは、すでに「学習性無力感」という体質になってしまっているのではないかと思うことがある。

 そのために、「何をやってもダメだ」という気持ちで、選挙があっても投票に行かない習慣になっているのではないか。

「学習性無力感」は、今読んでも、怖くなるような実験で明らかになった、心理学的には重要な概念だった。

米国の心理学者セリグマン(M. Seligman)はイヌを被験体とした実験的研究でこのことを証明しています。

被験体となったイヌの一方のグループは、第1日はハンモックに吊され、身動きできない状態で短い電気ショックを何度も与えられます。もう一方のグループでは、同じように吊されはしますが電気ショックは与えられません。

翌日、今度は低い柵で2つに仕切られた箱(シャトルボックス)に入れられます。この箱の中では、ランプが点いてから10秒後に、イヌが置かれた方の床に電気ショックが流れますが、柵を跳び越えて隣の床に逃れればショックを回避することができ、そのまま留まっていれば1分間の通電ショックを受けることになります。

第1日にハンモックに吊されるだけで電気ショックを与えられなかったイヌでは、シャトルボックスの中ではすぐに柵を跳び越え隣の床に逃げることを学習しました。ところが、ハンモックに吊され電気ショックを与えられ続けたイヌでは、その場に留まったままで柵を越える行動は見られませんでした。

つまり、第1日目の電気ショックは自分では逃れることのできないものであり、どのような努力をしても苦痛を回避することは不可能であるということを「学習」してしまった結果、第2日はなす術なく電気ショックにさらされるままになっていたと解釈できます。

セリグマンは、イヌに見られたこの反応を「学習性無力感 learned helplessness」と名づけました。学習性無力感は、長期にわたり逃れられない苦痛やストレスに晒され続けると、何をやっても状況を改善できないという感覚を学習してしまい、そこから逃れようとする努力を放棄し無反応になってしまう現象です。セリグマンによれば、人のうつ状態はこれと同様の反応であるとみることができます。

(『モチベーション・マネージメント協会』より)

 現代の日本では、うつ状態とはいえないにしても、それに近い状態に、ずっといる人がとても多くなっているように思うし、選挙があって、投票に行きましょう、と呼びかけられても、これまで「何も変わらない」が続いてしまえば、「学習性無力感」の状態にいるとは考えられないだろうか。

 そうなると、そこから回復するのは、かなり難しい。

 意欲が出るための一つの条件は,「自分はやればできるはずだ」という信念をもつことです。いわば,自分の行動(やるか,やらないか)によって,結果(成功か,失敗か)が決まってくるのだという信念です。これを,バンデューラ(Bandula)という心理学者は,結果期待と呼びました。
 しかし,彼は,それだけでは意欲が出るのに十分でないと言います。たとえば,「1日4時間勉強すれば,志望校に受かる」ということを納得し,確信したとします。つまり,結果期待は高いのです。ところが,「1日4時間勉強する」という行動を自分がとれるかという見込みはどうでしょうか。これは効力期待と名づけられました。効力期待が低ければ,「よし,がんばろう」という意欲には結びつきません。

 自分にとって実行可能で,しかも,それをすれば目標が達成できそうだという期待の両方があってこそ,意欲が湧いてきます。

(『モチベーション・マネージメント協会』より)

 選挙があっても投票に行かなくなった人にとっても、投票に行くことは「実行可能」かもしれない。だけど、そのことで「目標が達成できそう」かどうかになると、難しくなる。

 投票して、自分が思う通りに社会が変わることを「目標」にしてしまえば、投票行動は、一回おこなったとしても、次からはやる気にならなくなるだろう。

 そうなれば、投票しない人に対して罰金などをするか。投票に行ったら、それによって何かその本人にとって得るものがあるか。そういったことがないとモチベーションに結びつかないのもしれない。

 選挙そのものにおいては、自分が投票した候補者が当選するのが、一つの目標になるはずだが、毎回、それが達成されるかどうもわからない。

 支持政党や、支持する候補者がいなくて、自分が投票する人が当選することを目標にしてしまえば、多くの場合は、現状維持になってしまうのではないだろうか。そうしたら、そんな投票行動も意味があるとは思えない。

 どうしたらいいのだろうか。このまま投票率は上がらないままで、何があっても現状維持が続くのだろうか。

首相交代→解散→選挙  3年前の再現

 前回、衆議院の国政選挙が行われたのは、2021年のことだった。

 この時も、菅首相の支持率が低下をし、衆院選挙までの日程が迫る中で、急きょ、岸田首相に代わり、そして、すぐに衆院を解散した。

 岸田氏は首相就任後の4日午後9時過ぎ、首相官邸で初めての記者会見に臨んだ。
 「我が国の未来を切り開くための新しい経済、社会のビジョンを示していきたい」
 首相は、コロナ対策や経済政策など自らが重視する課題を次々と挙げて取り組みへの姿勢を示した。とりわけ強調したのは、成長戦略への偏重を改め、成長と分配を重視する「新しい資本主義」の実現だ。会見では「成長の果実が分配されなければ、消費や需要は盛り上がらず次の成長も望めない。分配なくして成長なしだ」と述べた。

 岸田文雄首相の最初の決断は、電光石火で総選挙に臨むことだった。長期政権の「負の遺産」や新型コロナウイルスなどへの対応が迫られるなか、政権発足から間を置かず選挙戦に突入することで優位に立つ戦略だ。

(『朝日新聞デジタル』より)

、この記事は2021年10月のものだが、その後、政権与党の思惑通りに、自民党は選挙で勝った。

 ただ、その後の政策は、最初にあげていた「分配なくして成長なし」という目標が、2024年までの3年間で達成された印象は全くない。賃金は上がらず、嘘のように値上がりだけが続いている。分配どころか、増税だけが準備されている状況を多くの人が知るようになったのが、岸田首相への呼び名に表れているのだと思う。

 「増税メガネ」といわれるようになった岸田首相への世論からの支持率が下がって、これでは選挙で戦えない、という声が自民党などの議員から出てきたらしい、というのは、さまざまなニュースなどで知った。

 そうしたら、やはり自民党は、総裁を新しい人にして、そして、国会を解散する。

 2021年と全く同じ「戦略」だった。

 それは、政権与党にとって、選挙で勝つための方法なのだろう。これまで繰り返してうまく行ったのだから、同じことをするのは、当然なのだろうと思う。

 だけど、こんなふうに思惑通りになるかと思うと、国民の1人として、不快な気持ちにはなる。

 石破茂首相は、2024年の10月の時点で、就任前と、就任後ではすでに主張が変わっているといわれる。

 もしも、10月末の選挙で、再び、自民党と公明党が勝利し、過半数を獲得すれば、岸田前首相のように、解散前とは全く違うように見える政策(国民が支持しなさそうな)を進める可能性も高いと思えるのは、自民党と公明党の政権は、そのことを繰り返してきた印象が強いからだ。

 そして、選挙の際、投票率が低いことは、本当のところを言えば、政権与党としては「悪いことではない」のだろう。

 無党派層について「関心がないといって、(投票に行かずに)寝てしまってくれればいいが、そうはいかない」

(『読売新聞』より)

 これは、森元首相の、選挙を直前にした発言で、政権与党にとっては、かなり本音に近いことだから、当時、より問題になったのだろうと思える。

 「政治的ニヒリズム」どころか「政治的な学習性無力感」で、投票率が低いことは、支持層がはっきりしていて、数が計算できるから、予測できないほどの大量な投票者が出てこないことを望んでいるであろう、政権与党の思惑通りなのだろう。

 そうなると、また3年前と同じことになる。その後の何年かも、同じように失望の日々が続くかもしれない。この繰り返しは、「失われた30年」がさらに伸びることになるとしか思えない。

それでも投票に行く理由

 今回の選挙もすでに始まっている。

 東京の隅の狭い道路しかないうちのそばにも選挙カーがやってきて、大きい声で自分の名前を連呼している。

 自分が投票に行っても、おそらく何も変わらない。

 それでも、今回も選挙に行く、と思う。

 それは、この時に書いた理由と変わっていない。

 この人に投票したい。
 ぜひ、政治家になってほしい。

 そういう人は、今回もいない。

 だから、消去法になる。どの人が、どれだけひどくないか。

 そういう選択をするのは、気持ちが消耗する。

 だけど、それは、社会を生きていく上での訓練にもつながりそうだし、投票には行く。

 さらにもう少し理由がある。

 私のような人間が語るまででもなく、日本でも、選挙で投票できる人は限られていた。女性が選挙に参加できるようになったのは、戦後からで、今のように成人が誰でも選挙に参加できるようになり、また被選挙権も持てるようになるまでには、少し歴史を遡るだけでも、多くの人が、今のような普通選挙制度にするために、本当に努力して、時には命をかけてきたのを知る。

 偽善的に響くかもしれないけれど、そんな無数の人たちの夢が叶ったのだから、今の世界に生きている以上、やはり投票すべきなのではないか、という気持ちがあり、それが投票に行く理由でもある。
 
 さらには、今のように投票率が低いままだと、ただ上げればいいという訳でもないのだけど、それでも、半分も行かない状況であれば、政治家の、政治に対する緊張感がゆるむのではないか、という気持ちもあって、だから、ほんのわずかでも投票率を上げたい。それが投票に行く理由の3つ目になる。

(『それでも投票に行く理由』より)

 それに加えて、もう一つ、「それでも投票に行こう」と思うようになったのは、3年前と同じように、首相の支持率が下がってきたのを知ると、次の選挙に勝つために首相をかえて、その支持率が高い時を狙って、国民のためとは思えない解散をして、選挙に勝つためだけの選挙をおこなう政権与党の姿を、また目の当たりにしているせいだ。

 それで、3年前も、政権与党は、狙い通りに選挙に勝った。

 そして、選挙の前に言っていた「約束」というか「公約」のようなものは守られた印象はなく、首相は「増税メガネ」と言われるようになって、モノの値段はやたらと上がり、収入は増えず、今も、政策と近いはずのお米も高いままで、何もしていないのではないか、という疑いが強くなる。

 政治家は、政治家であり続けることが最優先事項で、だから、今回も、政権与党は、その目的のために、首相をかえて、国会を解散して、選挙に臨んでいる。

 さまざまな不正も、もし選挙に勝ったら、「みそぎがすんだ。国民の信託を得られた」といったことを言って、何も変わらないであろう未来は、これまでの歴史の中で繰り返されたことだから、今回も、そうなるのは予想ができる。

 現在は、かたちとしては、日本は民主主義の国のはずだ。だから、主権は国民にある。でも、こうした政治に関する戦略によって、政治が、政治家という人たちのものになってしまっているように思える。

 それは仕方がないかもしれないし、それが政治というものかもしれないけれど、国民が主権ということを言えるようになるためには、選挙のたびに、国民の多くが妥当な判断力と知性をもとにフェアな一票を投じることを繰り返す必要がある。

 そんな難しいことは、おそらくどこの国もできていないし、これからもどの国でも不可能かもしれない。だけど、本当の意味で、政治を国民の手に取り戻すには、そうした基本的で困難なことをするしかない。

 ギリシャの直接民主主義が、奴隷という存在が必要だったように、政治に対して、本当に取り組もうとしたら、とんでもなく思考する時間がいる。だから、今のように毎日、なぜか忙しくて、政治に関して考えること自体が難しいと、「政治的ニヒリズム」であったり、「政治的学習性無力感」になっている方が自然かもしれない。

 だけど、だからといって、政治参加、ということを考えたら、一人一人は小さいとしても、直接的に発揮する力としては、かなり有効なことは、(コスパがいい、とも言えるかも)、選挙のたびに、普段はそれほど誰にでも頭を下げそうにない政治家の人たちが、大きい声で、投票をお願いする姿が証明しているようにも思う。

 つまり、政治的な力は、間違いなく(原理的には)、国民のもとにある。

(どれだけ有利と言われても、政治家の経験が長い人ほど、何かのきっかけで、人の気持ちは変わって、違う人に投票してしまうことを知っているから、普段から、選挙活動に手を抜かないのではないか。みたいなことも思う)。

 政治を、本当に国民主権である状態にするために、それが、微力で、もしかしたら自己満足に近い行為なのも自覚しつつも、まずは、今度の選挙にも投票に行って、一票を投じるしかない。

 だから、今回も選挙に行く、と思う。

 そんなことが、「政治的ニヒリズム」の人から見たら、本当に笑えることであっても、そうした行為をすることは、社会とつながろうするために必要だとも考えているから、投票に行く。

投票の方法

 選挙が近づくと、あちこちで投票を呼びかける声が届いてくる。

 だけど、それで投票率が上がった、ということにつながっているかどうかは、よくわからない。

 それでも、投票に行かない人は行かないし、そういう人がどうして行かないのかは、あまり詳細に検討されているように思えない。 

選挙に行って、投票したい気持ちはある。
だけど、中途半端な知識で、下手に投票して、それで変な結果を招くのが怖い

 詳しくは、この記事(↑)の中に書いたのだけど、そうした思いがあって、選挙に行けない人がいるのを、何かのテレビ番組で知った。

 こんなに真面目な人たちがいるのかと思ったし、ある意味では、とてもすごいことだとも感じたが、だけど、前提として、とても深い知識で投票している人なんて、おそらくはほとんどいないはずだ。

 毎回、必ず投票する人たちの中には、いわゆる組織票として、すでに投票する人が決まっている場合も少なくない。だから、選挙の速報で、あれだけ早く結果が出せるのだろう。

 そうした人たちに、どうして、その人に、その政党に投票するのか?と問われれば、スムーズに答えも返ってくると思うが、その答えが自分で考えて、調べて、勉強して、それで出した結論かどうかは、わからない。

「組織」が用意した資料を読み込んでいるだけかもしれない。

 だから、もしも、中途半端な知識であっても、少しでも情報があって、それをもとに自分で考えて投票するのであれば、それは真っ当な投票行動だと思うけれど、どうだろうか。

 例えば、この書籍は「17歳からの」とあるが、その通りで、17歳から上のかなり上の年齢であっても、十分に役に立つように思えた。

 そうした知識を活用するには、今回は間に合わないとして、次回から選挙に行く方法もあるけれど、でも、投票権があるのなら、それを実際に行使することを始めないと、「投票力」は上がらないと思う。

 サッカーを始めて、ずっとキックの方法など基礎的なトレーニングだけではなく、なるべく早く試合を経験しないと、いつまで経っても上達しないようなことと似ているかもしれない。

 だから、もう残された日数は少なくて申し訳ないのだけど、最低限、これだけおこなえば、おそらくは、大丈夫であろう、投票への準備がある。

 まず、選挙の投票所入場券というのが、届いていれば、それを持って、投票所に行けば、投票ができる。届いてなければ、問い合わせてもいいし、もし、住民票が今の現住所と違っていれば、住民票に記載されている住所にその投票所入場券が届いているはずだ。

 この券があれば、投票に行ける。

(ここまで知っている方が多いと思うので、変な確認になり、申し訳ないけれど)

誰に、どこに投票すればいいのか?

 次は誰に投票するかを、投票所に行く前に決めた方がいい。

 すでに「選挙公報」というものが配られているはずだ。

 もし、手元になければ、こうしたサイトで入手もできる。(自分が、どこの選挙区の投票権があるのを確認するのは、少し面倒くさいのだけど)。

 ここに候補者の情報がある。

 全部、その候補者側からの情報だから、おそらくは不利なことなどは書いていない。

 だけど、この選挙公報を読んで、どの人が良さそうか、考えて、そして、その人に投票する。


 さらに、今回は、比例代表という、もう一票がある。

 それは、どの政党を支持するか、という意見表明になる。

 これも選挙公報が届いているはずだけど、なければ、こうしたサイトで入手できる。

(『衆議院 (比例代表選出) 議員選挙公報』)
https://www.senkyo.metro.tokyo.lg.jp/uploads/R3syuin_hirei.pdf

 これを読んで、この政党が良さそうだ、と思えば、その政党に投票する。

 これだけの手順を踏めば、かなり真っ当な投票をしたと言えるのだろうし、選挙後も、自然と政治に関心が増していき、次には、もっと情報や知識を得て、投票することができるようになっていくと思う。

 でも、選挙公報を読んでも、判断がつかない場合も少なくない。

 みんながいいことを、そして似たようなことを言っているようにも思えても仕方がない。

 そういう時は、基本原則があるはずだ。

 今の社会のあり方で、満足していたりするならば、現在の政権与党へ投票する。

 もし、今の社会は違うと感じていれば、いわゆる野党と言われる政党へ投票する。

 これだけで、自分の意見は表明したことになると思う。

(今の与党は、自民党と公明党。野党は、それ以外になる。無所属とあっても、プロフィールなどを見れば、どちらに寄っているかはわかることが多い)

 ここまで何だか偉そうな感じになって申し訳ないのだけど、この「選挙の方法」に関する部分は、「選挙に行って、投票したい気持ちはある。だけど、中途半端な知識で、下手に投票して、それで変な結果を招くのが怖い」と思っている人に向けて、書きました。

 もし、中途半端な知識で投票したとしても、矛盾する言い方になりますが、一票では何も変わらないことが多く、それほど大きな影響を与えることはありません。だけど、一票を投じた人が一人でも増えていかないと、おそらく世の中が良くなる可能性も少なくなる一方だとも思います。

 よかったら、投票に行ったほうが気が楽になるのではないでしょうか。


(このポッドキャスト↓も政治を「勉強」するにはいい教材だと思います。ここに登場するTBS澤田大樹記者は、政治記者としてプロでありながらも、感覚まで「政治家」にならずに、一般的な普通の人の視点を失わないので、貴重な存在だと思います。かなり政治オタクだとは思いますが)。


誰に呼びかければいいのか?

 私自身は、選挙や政治に関しては、こうしてnoteに書くぐらいのことしかできないし、それ以上のことはしないと思う。

 だから、それこそ偉そうなことを言えないけれど、例えばX(旧Twitter)で呼びかけても、現在、選挙に行かない人へ届かない可能性があることをこの記事↓で知り、いくら呼びかけても効果が出にくいことがあるのは、理解できる気がした。

 これまでの投票結果を見ても、年齢を重ねれば重ねるほど投票に参加する人は多くなるが、上記のグラフによると、大卒の若年層(30歳代以下)の方が、非大卒の壮年層よりも、積極的に政治に関心を持ち参加している。
 つまり、政治参加に消極的なのは、中高卒などの非大卒層である。

 一般的に、非大卒層の方が、雇用が不安定で、所得が低い傾向にある。つまり、政治的な関与を必要としていると言える。
 しかし実際は、政策的な支援のニーズが高い層ほど、政治に参加していない、十分に政治状況を理解できていない状況にある。

 この層ほど、そもそも選挙があることを知らず、労働環境など日々の生活に不満を抱えている。

「投票に行こう!」と呼びかけているのも、その大半が大学生や大卒の高学歴層であり、ツールも同じ属性が繋がりやすいSNSを活用しているため、その対象も大半は同じような属性である。
 つまり、本来のターゲットが不在のまま、キャンペーンを行なっているのが結果が出ない理由である。

(『Yahoo!ニュース』より)

 だから、もしも投票率アップのための活動をするのであれば、「中高卒などの非大卒層」へいかに届くか?を考えておこなう必要があることが、すでに3年前に明らかになっている。

 だとすれば、これから投票率アップの啓発活動をするのであれば、このことを前提に行なうしかないのだろう、とは思う。

 自分がおこなっていないことを語るのは無責任なのだけど、この傾向はおそらく今も続いているのではないだろうか。





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おちまこと
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