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言葉を考える⑮「一喜一憂」と「喜怒哀楽」

 四文字熟語というような構えた言葉を使わなくても、「一喜一憂」「喜怒哀楽」は、人の感情を表す表現として、今もあちこちで使用されている。


喜怒哀楽

 知っている人は知っていることだと思うので、今さら指摘するのも恥ずかしいのだけど、人間のあらゆる感情を表現しているのが「喜怒哀楽」のはずだった。

喜怒哀楽(きどあいらく)は、人間の持つ多種多様な感情総称文字通り喜び怒り哀しみ・楽しみ」の4要素を指す場合もあるが、恐れ驚き憎悪緊張期待不安なども含んだ人間あらゆる感情」「ポジティブ感情ネガティブな感情も含む感情一切合切」を指す意味合い用いられることが多い。

(「Weblio 辞書」より)

 だから、とても素朴な見方なのだろうけど、「喜怒哀楽」が、感情を表すときには、かなり万能に近い印象があったので、改めて考えると、少し不思議だったのが「一喜一憂」という言葉だった。

 「一喜一憂」には、「喜」が入っていて、これは「喜怒哀楽」の中にもあるのだけど、「一喜一憂」の「憂」は、「喜怒哀楽」の中にない。「喜怒哀楽」が、『人間のあらゆる感情』(「weblio辞書」)を指しているとすれば、例えば、この中から「哀」を選んで、「一喜一憂」ではなくて「一喜一哀」とした方が、なんとなく納得感が強くなるような気がするのだけど、どうして「憂」という言葉が選ばれているのだろうか、と少し違和感がある。

一喜一憂

「一喜一憂」とは、喜んだ落胆したりと目まぐるしく心情変化すること、および、そのようにして(周囲の状況に)心情振り回されること、を意味する表現である。

つまり「一喜一憂」は、それ自体は「喜んだり心配したり」するさまを意味する語である。そして大抵の場合は「外部の要因による心情変化」を形容する表現として用いられる

「一喜一憂」は、恋愛使われることも多い言葉だ。恋愛中は、恋人何気ない言動で傷ついたり、または嬉しくなったりなど、感情揺れ動きやすい状況になっているためである。

(「Weblio 辞書」より)

 「喜怒哀楽」のときになかった表現が「周囲の状況」だと思う。

 そして、「恋愛中は、恋人の何気ない言動で傷ついたり、または嬉しくなったり」(Weblio 辞書)と、「周囲の状況」への過敏とも思える反応としての「一喜一憂」だから、その主体は「周囲の状況」にあるように思える。

 でも、だからといって、ここで「喜怒哀楽」という人間の感情全てを表すと言われる中から「哀」ではなく、わざわざ「憂」を選ぶ理由としては、少し弱い気がする。

杞憂

 自分の知識の範囲内なので、とても限定されていて申し訳ないのだけど、「憂」が入っている慣用句のようなもので、思いつくのは「杞憂」だった。

この言葉は、中国古代故事「杞人の憂い」から派生している。杞人の憂いとは、杞の国の人が天が自分頭上落ちてくることを心配し、その心配で日々を過ごすという話である。この故事から、「杞憂」は現実離れした心配や、根拠のない不安を指すようになった。この言葉は、心理学哲学文学など分野用いられ人間の心理状態や行動を表現する際に使われることが多い。 

(「Weblio 辞書」より)

 このことは、確か漢文の授業で教わった気がして、特に高校の頃は授業中はほぼ寝ていたので、覚えていることは少ないが、この「杞憂」の語源について記憶しているのは、「空が落ちてくることを心配する」というあり方が、心配することとしては想像を超えていて、かなりインパクトが強かったせいだと思う。

「杞憂」とは、心配する必要のない事や、心配してどうしようもない事を、あれこれ考えて悩むこと、要するに「無用の心配」「考え過ぎ」「取り越し苦労」を意味する表現である。

(「Weblio 辞書」より)

 この場合の「憂」は、起こっていないことに関しての感情で、他の人から見れば、何も変化がないのに、その当人だけの内面で起こっている感情で、それは、自分で作り出した想像で自分が振り回されている、ということだろう。

 そして、そんなときに「哀」ではなく、「憂」が使われている。

不安

 まだ実際には起こっていないことに対して、心配する。
 それは、もしかしたら人間特有の能力で、そのことによって、かえって苦しむこともあるかもしれない。

 そのことを象徴するのが、「憂」なのではないか。

 前出の「一喜一憂」の時の説明で、「周囲の状況に振り回される」という表現があって、そして、恋愛の状況でも多用されるのだから、まだ起こっていないこと。違うかもしれないこと。それに対して、想像して、その自分の想像に対して感情が起こっている、ということではないだろうか。

 そして、「喜怒哀楽」と何が違うのかと考えてみると、「喜怒哀楽」は、あくまでも実際に起こった出来事に対しての感情なのだと思う。

 「憂」というのは、まだ起こっていないこと、もしかしたら、これからも決して起こらないことに対しての不安のようなものだから、「喜怒哀楽」のような、出来事に対しての反応としての感情とは違うことを表すために、「一喜一憂」は「憂」を使っていて、「喜怒哀楽」の中から選ばれていないのかもしれない。

「喜」という感情

 そうなると、「一喜一憂」の「憂」だけではなく、「喜」も、「周囲の状況に振り回される」ように生じている可能性もあって、それは実際にはないこと(例:相手が自分に好意を持っているのではないか)を想像して、喜んでいる場合もありがちだ。

 そうなれば、この「喜」という文字も、違うものを選んでもいいのだろうけど、虚しい嬉しさのような表現としては、すぐに思いつくのが「ぬか喜び」という言葉だった。

 この場合も、「喜」という文字自体は使われていて、その「喜」が、一時的なものと示すために「ぬか」という単語がついている。

 ということは、「喜」の感情自体は、想像から生じたとしても、実際に嬉しいことがあったときにでも、心の働きとしては、それほど変わりがない、ということではないだろうか。

「ぬか喜び」であっても、嬉しかった瞬間の思いは、変わりがない。想像で、ありえないことをイメージし、それによって生じた嬉しさによって無意識のうちに表情がゆるむことさえある。

 その時の心は「喜」によって占められていて、そのあとに虚しさに襲われたり、外から見たら愚かなことに見えたとしても、その「喜」の感情自体は本物で、それにその瞬間だけは、その「喜」の感情は、その当人の心身にとってはプラスに違いない。

再び「一喜一憂」

 つまり、「一喜一憂」でも「喜怒哀楽」でも、「喜」を使っているのは、想像から生じていても、実際の感情でも、同じように心に働きかけて、その上で、その作用が心身にプラスであることが共通している。ように思う。

 それと比べると、実際に起こっていないことに対して心配し不安になる「憂」は、もしかしたら、悲しい出来事に遭遇したときに生じる「哀」と、それほど感情そのものは変わらないのかもしれないけれど、でも、まだ起こっていないことに対しての「憂」は、実際の出来事で生じる「哀」よりも、際限なく膨らむことが多い。

 そうした違いがある上に、「憂」は、実際の悲しさで生じる「哀」などに比べると、より心身に負担を(長く)かける可能性がある。だから、想像によって生じる「憂」は、あまりポジティブな使われ方をしない「一喜一憂」で使われているのではないか。

 「一喜一憂」の対義語としては、慌てことなく落ち着いているという意味の「泰然自若たいぜんじじゃく)」、静かに静まり返っているという意味がある明鏡止水めいきょうしすい)」、悠然として余裕があるという意味の「余裕綽々よゆうしゃくしゃく)」、物事動じないという意味がある冷静沈着れいせいちんちゃく)」などが挙げられる

(「Weblio」より)

一喜一憂」の対義語の並びを見れば明らかなように、かなりポジティブ、もしくは、できたらこうありたい、という気持ちの状態であるから、「一喜一憂」は、(逃れられない感情であるとしても)望まれない状況であることは明らかだと思う。

 そんな言葉にも「喜」は含まれているから、人間にとって「喜」という感情が、どれだけ必要なのかを、かなり昔から人類は知っていたのだと(個人的には)思う。





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