「子持ち様批判」について、「子どもを持たない人間」が思ったこと。(前編)
もう、かなり前のことになってしまうのだけど、ドラマを見ていたら、主人公が、同僚の子どもが急病のため、その仕事をかわることになっていた。
主人公は、以前から楽しみにしていた予約の取れないレストランをキャンセルし、しかも、当日のためか、かなりのキャンセル料(1万円を超える)が発生しているらしい場面があった。
その後も、その主人公の前で、上司は子育てをしながら仕事をしている同僚をほめたり、その同僚に電話をすると、その同僚はすごく謝ってくることになる。
そういう中で、主人公は、さまざまな葛藤を持つ姿が描かれる。
金曜日の夜10時に放送されるドラマなのだから、こうしたことは、おそらく共感を得られるよくあることなのだろうと思った。私自身は結婚はしているけれど、子どもはいない。でも、子育てをめぐるさまざまなことは、やっぱり気になっている。
それは、これからの社会のあり方に直接関係してくることだからだと思う。
「子持ち様批判」
これも古い話題になってしまうと思うけれど、その頃、「子持ち様批判」という言葉を知った。
「様」がついているところに、根深い気配があった。
この記事の主軸は、「子持ち様批判」への批判のように読めた。
失礼ながら「ゆな先生」のことは知らなかったのだけど、インフルエンサーといえる人なのだろうし、同時に投資家という経済的な強者であれば発言権があるのが、現代だと思った。
さらに、別の記事の中↑でも「子持ち様批判」が目立つようになった、いくつか理由が挙げられている。そして、結論としては、こうしたことが述べられている。
つまり、現代に特有の問題として把握しているようだ。
そして、上に引用した2つの記事のどちらも、その解決策として「理解」という言葉が出てきている。
ただ、それは「子持ち様批判」の人へ向けるのも、『「子持ち様批判」への批判をする人』へ届けるにしても、その主張に対して、「理解が足りないからでは」という指摘をし続けることにならないだろうか。
そのことによって、感情的な対立は、かえって大きくならないだろうか。
制度の改善
誰かに負担が偏らないようにするには、そこにいる人たちの配慮や思いやりといったことではなく、制度の改善などで対応した方がいいのではと思うことが多い。
子どものことで、早く帰らなくてはいけなくなった人が、直接、周囲の人にお願いする、という個人的な努力と配慮に頼っているようでは、頼む方も頼まれる方の負担も大きいままだから、もしも、子育てにも優しい組織を目指す企業であるのならば、子どものことで急に帰宅や対応が必要な場合は、上司に伝える。
そうなると、その上司が業務上の責任として、なんとかする。だけど、そのためには、普段から人が足りないというよりは、余裕がある人数で仕事をする、という冗長性が組織に必要になってくるから、もしかしたら根本的な改善が必要になってくるのかもしれない。
冗長性という言葉は、この西田亮介氏の著書を読んで初めて少し理解できたような気がしたのだけど、これもコロナ禍という非常時に対応するために必要な要素として「冗長性」の重要性を話していたのだけど、確かにそう思えたし、日常でも、子育て中の人だけではなく、誰でも働きやすくするためには、組織にも冗長性という余裕をつくり、さまざまな非常事態にも的確に素早く対応できるようにしていった方がいいと思う。
「子持ち様批判」は、誰かが我慢するのではなく、そうした組織の根本的な改善に進んでいくのが、これからの目指すべきことだと思うけれど、そうした制度はすでに一部だけど、存在しているようだ。
ケアレス・マン
ケアレス・マンという言葉を、いつ頃聞いたのかは覚えていないけれど、最初にその言葉を知ったときは、その内容を誤解していた。
ステンレスは、今はキッチンなどでは普通に使われている素材で、おそらくはオーソドックスな存在になっているのだろうけれど、その登場時は「サビない」という画期的で、とても強い素材のような印象だったはずだ。
だから、ケアレス・マンという単語を聞いた時は、ケアを必要としない、つまりはスーパーマンのような存在が頭に浮かんだ。
だが、それはイメージとしてはやや合っているのかもしれないけれど、その存在の意味合いが全く違っていた。
こうした記事でもまとめて書いてくれているので、孫引きになるが引用する。
それは悪い意味で超然としているから、自分のイメージもまぐれとはいえ、どこかかすっているくらいは当たっていた。
日本では職場の労働者のモデルが「ケアレス・マン」であり、さらに、男性が誰かのケアをしていないだけでなく、自分のケアを誰かにしてもらっている存在なのだと、この記事では指摘している。たとえば、妻が育児や介護を担っていれば、夫である男性はそれらのケア労働から解放される。さらに、妻が炊事、掃除、洗濯、その他日常の家事のタスクもこなしてくれれば、夫は自らの時間を最大限、仕事のために捧げることができる。
高度経済成長からバブル絶頂期までは、おそらくは、この、今考えたら、いろいろな意味で無茶のあるシステムでも、少なくとも表だった不満が出にくかったのは、経済的に豊かだったせいだろう。
でも、それは男性の能力を限界ギリギリまで使い切ることによって、そして、その男性を支える、という役割に女性を押し付けることで、(これが単純化し過ぎているかもしれないけれど)、やっと成り立っていた構造だったのだろうし、これは国全体の経済成長という視点から見れば、当時では「正解」だったかもしれないけれど、でも改めて、それが個々人の幸せということから考えたときは「正解」だったどうかもわからなくなっている。
ケアレス・マンでは許されない
それまでは「ケアレス・マン」でいられたかもしれない働く男性も、現代では、それが許されなくなった、というよりは、夫婦がどちらも働くスタイルの方が多数派になっていることも含めて、不可能になってきた、ということだろう。
このブログは、労働組合の事務局長という立場だから、比較的率直に語られているとは思うので、もし、こうした筆者の肩書きに抵抗感がある人でもあっても、現在の、子育てをしながら働く男性であれば、その共感の程度に差があるとしても、もしかしたら似たような状況や気持ちがあるように感じる。
この文章が書かれたのは、2022年で、現在よりコロナ禍が厳しい状況であるから、配偶者が医療関係で働いているのであれば、今よりも緊張感も強いと思われる。
この文章の表現にやや硬さはあるものの、特に、こうした指摘↓はとても重要だと感じた。
子育て、というケアを提供する側でいて、同時に自分自身も健全な状態を保つためには、当然だけど「自分の時間」が必要なのは当たり前のようにも感じるが、でも社会で働くためには「ケアレス・マン」が前提である社会では、気がつかなかっただろうし、「ケアレス・マン」という言葉自体が、現状への懐疑的な思考がなければ、存在しない発想だったはずだ。
「ケアレス・マン」と「夫婦同姓」
だから、「ケアレス・マン」が当たり前の時代には、この言葉や考え方自体が存在しなかったはずだ。
それは、あとから振り返れば高度経済成長からバブル期に至るまでの、多めにみても約40年くらいの特殊な時期に成立していた「夫が正社員として会社で働き、妻は専業主婦として家事を担当する」が当たり前、という時期ではないだろうか。
明治以降は、西洋諸国からの植民地支配を免れるために、富国強兵が国の方針だったと言われているし、戦後も、今はほとんど使われなくなったけれど、会社で働く男性を「企業戦士」と表現し、経済戦争などとも言われていたはずだから、かたちは違っても、戦後も「富国強兵」で突っ走ってきたと言っても大げさではないと思う。
こういう時期には、夫が「ケアレス・マン」が当たり前で、妻が、その夫を支えるために「専業主婦」であるためには、夫婦同姓というシステムと相性がいいように感じる。夫婦というか、家族という単位で、「富国強兵」や「経済戦争」のために力を注ぐためにも、一つのチームとして同じ姓であったほうが、おそらくは色々な意味で都合がいい。
そこまで考えていたかどうかはわからないけれど、明治以降に夫婦同姓になった要素の一つには、一つの家族に一人の「ケアレス・マン」を成立させるため、という狙いがあったのかもしれない。
「一体化」と「夫婦同姓」
さらには、それが正しいのか、本当に幸せになるのか、幻想に過ぎないのではないか。といった検討をする前に、明治以降から、バブル期にまで、何か大きな目的のために一体となって力を尽くす、といった感覚と、夫婦同姓も相性がいい気がする。
確かに、高度経済成長期からバブル期の頃、経済的には給料が上がるのが当たり前の感じもあったし、だから、今日よりも明日の方が経済的には豊かになるような感覚が、一般的なサラリーマン家庭(父もケアレス・マンだった)に育っていた私のような人間にも感じられた。
だから、そうした(今から考えると、幻かもしれない)一体感のようなものの中で生きてきて、夫婦同姓が疑われにくい時代に育ってきた人にとっては、もしかしたら、夫婦別姓という単語があるだけで、それまでの自分の人生を否定される気がするのかもしれない。
法律としては珍しく、選択的夫婦別姓、と同姓も別姓も選べるようになっていることに、どうして反対するのだろう。自分は別姓を強制されるわけでもなく、誰か別の人が、その人自身の意志で別姓を選ぶことになぜ強く反対する人がいるのだろう。などと思うことがあったのだけど、戦前は「富国強兵」、戦後は高度経済成長という「経済戦争」を生きてきた時代に、何か大きなものを目指すような一体化と、その時代に自分自身が幸せであったと強く感じてきた人にとっては、選択的夫婦別姓という言葉を見たときに、もしかしたら「選択的」という重要な言葉は目に入っていないのかもしれない。
そう考えないと、どこか感情的にも思える強烈な拒否感が説明がつかないような気がするし、もしかしたら、そうした人たちは「ケアレス・マン」の存在に肯定的かもしれないと思ってしまった。
そうであれば、「ケアレス・マン」という設定自体が無理がある、というような主張を、理屈ではなく感情的に受け入れられない層も一定数いることが予想されるから、「ケアレス・マン」は、もう許されない、といった今では真っ当な主張は、実は思ったよりも根深い対立を呼ぶことになるかもしれない。
人生100年時代
いつの頃からか「人生100年時代」という言葉を、笑顔と共に語る人が増えた。
確かに平均寿命は長くなっている。
私も、103歳まで生きてくれた妻の母と一緒に過ごしていたけれど、「人生100年時代」という言葉を聞くと、決して明るい気持ちにはなれないのは、100年も生きられるのは、おめでたいことかもしれないけれど、それだけ長く生きることになれば、少なくとも晩年の10年くらいは、介護が必要になるのは間違いないように思うからだ。
この資料↑によると、今でも健康寿命と平均寿命の差が10年ほどある。しかも、平均寿命の伸びのほうが、健康寿命より長くなっている。
ということは、これから本当に「人生100年時代」になれば、今よりも介護に必要な期間は長くなる可能性がある。
そうであれば、ケアする人も、ケアする時間が今よりも必要になるのは間違いない。
その話がまず出てもいいのに、なぜか、「人生100年時代」が語られる時には、笑顔で、元気で生きられることが前提になっているけれど、寿命が長くなればなるほど、「ケアレス・マン」ではいられない。
介護の経験
個人的に「人生100年時代」という言葉を明るく語る人に、微妙な不信感を反射的に抱いてしまうのは、103歳まで生きてくれたから、「人生100年時代」を早くも体現してくれた妻の母親を、妻と一緒に在宅で介護して、暮らしていた経験があるせいかもしれない。
自分の母親も介護が必要になり、義母も介護が必要になり、結局19年間は介護生活になった。それを迷惑だと思ったことはないが、「いつまで続くかわからない」ことに追い詰められ、死にたい気持ちにもなったことはある。
けれど、「人生100年時代」になれば、そのような思いをする人が、今よりも増えることになるのは間違いない。平均寿命が伸びたとしても、現時点では健康寿命は10年ほど短いから、単純計算すぎるかもしれないが、介護がその年月必要になるはずだ。今後、平均寿命が増え、それこそ100年に近づいたとしたら、健康寿命がそれに見合うだけ伸びないとすれば、今よりも介護が必要になる年数も増えると思う。
そんなことを考えてしまうせいか、「人生100年時代」と聞くと、さらに長くなる介護年数を連想してしまい、気持ちは重くなりがちで、だから、そんなことを考えてなさそうに(もしかしたらそれも含めて思考している人もいるかもしれないけれど)ポジティブに語る人に対して不信感が出てしまうのだろう。
誰でも、子どもがいないとしても、もし、親との縁を切る人が一定数いたとしても、それでも、寿命が長くなるほど、ケアする人は増え、関わる年月も長くなるはずで、それを前提に社会を再構築してこそ、本当の意味で「人生100年時代」になるはずだ。
そのためには、本当の意味での「働き方改革」も必要になると思う。
(※後編へ続きます)
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