読書感想 『パラレルワールドのようなもの』 文月悠光 「その時の言葉、その時の気持ち」
誰かが、どこかですすめていて、それで興味を持って、図書館に予約をして、忘れていた頃に、地元の図書館に届いたと連絡をもらって、自転車に乗って、借りに行った。
手元に来て、ページを開いたら、それは詩集だと気がついた。
著者には失礼だと思ったけれど、その著者の詩は初めて読んだ。
『パラレルワールドのようなもの』 文月悠光
自分が知っている現代詩は、そこに触れる時に、ある種の覚悟のようなものが必要だと感じていた。
そこにある言葉は、普段使っているものとは、全く違っていて、とても深い場所か、もしくは、かなり遠いところへ気持ちを持っていかないといけない、と思い込んでいたから、この詩集を読み始める時も、どこか息を整えるようなためらいがあった。
だけど、この文月悠光(ふづきゆみ)の作品を読み始めたら、もっと身近で、日常に近い言葉で組み立てられているような気がして、でも、それはもしかしたら、読者としての力が足りない勘違いの可能性もあるのだけど、だけど、その描かれている世界に、あまり慣れていない読み手を連れていくには、すごく優れた言葉なのかもしれない、と思った。
その時の言葉、その時の気持ち
こうした、その時がはっきりとわかることを前提に書かれた詩というのが新鮮で、だからなのか、その時の自分の気持ちも重ねるように、現在のように感じられた。そして、思った以上に、その時の感覚を忘れそうになっていることにも気がついた。
本当は、縦書きで書かれていたから、横にする時点で、違ってしまう部分もあるのかもしれないけれど、その中の一編を引用する。
遠いくちづけ
パラレルワールドのようなもの
この詩集のタイトルになっている「パラレルワールドのようなもの」は、いかにも詩集のイメージに合っているように感じたのだけど、この言葉が、現実の世界で、しかも、かなり暴力的な使われ方をしていたことを、恥ずかしながら、忘れていた。
「パラレルワールドのようなもの」という作品は、怒りと混乱と不安が詰め込まれているようで、2年も経っていないのに、自分からは、その時の気持ちが抜け落ちるようになっていて、それは、保持し続けることは心の負担になるから、忘れるような気持ちの働きがあるのかのしれない、と思った。
さらに、詩集では、個人的にはあまりみたことがない形式だったのだけど、「パラレルワールドのようなもの」の作品のあと(もしかしたら、作品の一部かもしれないけれど)には、「未来の読者への覚書」という、その当時の、さまざまな媒体の記事のタイトルの引用が並んでいた。
これで、全部ではないけれど、ここに並んだ言葉も、それぞれにイメージと記憶と印象が、一気にふくらむ作用があると思った。
詩の言葉
詩と散文。
その二つは、はっきりとした違いがあることを、わかる人にはわかるらしく、そのことを突きつけられると、個人的には、見分ける(という表現も偉そうだけど)ことに対しての自信は、全くない。
基本的には、一行ごとに、どんどん段落が進んでいき、だから、一文字あたりの密度が高いのが、詩の言葉、といった勝手なイメージがある。
だけど、「波音はどこから」の、ごく一部分、検査の場面の描写だけでも、そうした一般的な「詩のかたち」に添っていないのに、そこに配置された言葉は、やっぱり、散文とは微妙に違う感触があるような気がする。
コロナ禍のドキュメンタルな詩だけではなく、未熟な読者としての勘違いかもしれないけれど、他にも、こうした、その場面に憑依できるような感覚になれる詩が並んでいる。
おすすめしたい人
やっぱり、大げさかもしれませんが、世の中を見るときの、自分自身の解像度のようなものを、確認したい人。
毎日が、通り過ぎるように早く去っていって、不安に思っている人。
そして、詩、というものに、苦手意識がある人ほど、おすすめしたいような気持ちにもなります。
(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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