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読書感想 『パラレルワールドのようなもの』 文月悠光 「その時の言葉、その時の気持ち」

 誰かが、どこかですすめていて、それで興味を持って、図書館に予約をして、忘れていた頃に、地元の図書館に届いたと連絡をもらって、自転車に乗って、借りに行った。

 手元に来て、ページを開いたら、それは詩集だと気がついた。

 著者には失礼だと思ったけれど、その著者の詩は初めて読んだ。

『パラレルワールドのようなもの』 文月悠光 

 自分が知っている現代詩は、そこに触れる時に、ある種の覚悟のようなものが必要だと感じていた。

 そこにある言葉は、普段使っているものとは、全く違っていて、とても深い場所か、もしくは、かなり遠いところへ気持ちを持っていかないといけない、と思い込んでいたから、この詩集を読み始める時も、どこか息を整えるようなためらいがあった。

 だけど、この文月悠光(ふづきゆみ)の作品を読み始めたら、もっと身近で、日常に近い言葉で組み立てられているような気がして、でも、それはもしかしたら、読者としての力が足りない勘違いの可能性もあるのだけど、だけど、その描かれている世界に、あまり慣れていない読み手を連れていくには、すごく優れた言葉なのかもしれない、と思った。

その時の言葉、その時の気持ち

本書は私にとって四冊目の詩集です。(中略)二〇一六年から二〇二二年にかけて執筆した詩から二十六篇を選びました。

「パラレルワールドのようなもの」の章は、移り変わるコロナ禍の生活を、如実に反映しています。詩の専門誌ではない、一般誌で発表した作品が中心です。初出は以下の通り。

 コロナタワー「文藝春秋」二〇二〇年六月号
 誰もいない街「週刊文春 WOMAN」二〇二〇年春号
 誘蛾灯「読売新聞」二〇二〇年九月二十五日夕刊
 遠いくちづけ 「婦人之友」二〇二一年十月号
 おやすみなさい 「早稲田学報」二〇二〇年八月号
 パラレルワールドのようなもの 「現代詩手帖」 二〇二一年九月号

 こうした、その時がはっきりとわかることを前提に書かれた詩というのが新鮮で、だからなのか、その時の自分の気持ちも重ねるように、現在のように感じられた。そして、思った以上に、その時の感覚を忘れそうになっていることにも気がついた。

 本当は、縦書きで書かれていたから、横にする時点で、違ってしまう部分もあるのかもしれないけれど、その中の一編を引用する。

遠いくちづけ

 落ち着いたら会いましょう。
 心から告げた言葉が
 嘘になってしまう悔しさに
 通話中、唇を噛んだ。
 同じ言葉、もう何度目になるだろうか。
 落ち着く先が見えない不安と
 いつ果たせるかわからない約束。
 互いを遠ざけておくやさしさも、
 あなたには、きっと伝わると信じて。

 落ち葉を拾いあつめて漂い歩く。
 うらさびしく渇いた心を
 燃えたつ秋の色で満たそうとしながら。
 風の采配によって、
 わたしたちはここへ運ばれてきた。
 心許ないみずからの運命を
 吹き荒れる風にゆだねるほかなかったのだ。

 今、どんな陰影や色合いで
 この世界を描きだせるだろう?
 せめて光射すきざしは逃さぬように。
 この手に残された枯れ葉を壊さぬように。
 両手だけの思い やわらかく掬いとって。

 落ち着いたらほんとうに……。
 言い淀みながら、窓のそとを見やる。
 木の枝は静かにうなずく。
「会わない」ことを選ぶわたしたちを
 勇気づけるように、深々とうなずいた。
 色づいた葉は、風に遠く送りだされて
 あなたの窓に赤々と
 生きたしるしを残す。

パラレルワールドのようなもの

 この詩集のタイトルになっている「パラレルワールドのようなもの」は、いかにも詩集のイメージに合っているように感じたのだけど、この言葉が、現実の世界で、しかも、かなり暴力的な使われ方をしていたことを、恥ずかしながら、忘れていた。

「パラレルワールドのようなもの」という作品は、怒りと混乱と不安が詰め込まれているようで、2年も経っていないのに、自分からは、その時の気持ちが抜け落ちるようになっていて、それは、保持し続けることは心の負担になるから、忘れるような気持ちの働きがあるのかのしれない、と思った。

 さらに、詩集では、個人的にはあまりみたことがない形式だったのだけど、「パラレルワールドのようなもの」の作品のあと(もしかしたら、作品の一部かもしれないけれど)には、「未来の読者への覚書」という、その当時の、さまざまな媒体の記事のタイトルの引用が並んでいた。

「川崎殺傷「1人で死ねば」の声 事件や自殺誘うと懸念も」二〇一九年五月三十一日 朝日新聞デジタル

「「ワクチン接種がおもてなし」 橋本聖子五輪組織委員長」二〇二一年六月九日 毎日新聞
「東京都に4回目の緊急事態宣言 五輪期間すべてが宣言の時期に」二〇二一年七月九日 NHK NEWS WEB
「東京オリンピック開会式始まる 延期、無観客…異例づくしの大会に」二〇二一年七月二十三日 毎日新聞

「東京と五輪は「パラレルワールドのようなもの」都内コロナ感染、過去最多更新3865人もIOCは関連否定」二〇二一年七月二十九日 中日スポーツ
「小田急線車内で10人重軽傷 36歳の男を殺人未遂容疑で逮捕「幸せそうな女性を殺してやりたいと思った」、床にサラダ油まく」二〇二一年八月七日 東京新聞TOKYO Web
「自宅で死亡した新型コロナ感染者 半年間で84人」二〇二一年八月三日 NHK NEWS Web
「「自宅療養中の死亡者数、厚労省「把握していない」」二〇二一年八月十日 朝日新聞デジタル

 これで、全部ではないけれど、ここに並んだ言葉も、それぞれにイメージと記憶と印象が、一気にふくらむ作用があると思った。

詩の言葉

 詩と散文。

 その二つは、はっきりとした違いがあることを、わかる人にはわかるらしく、そのことを突きつけられると、個人的には、見分ける(という表現も偉そうだけど)ことに対しての自信は、全くない。

 基本的には、一行ごとに、どんどん段落が進んでいき、だから、一文字あたりの密度が高いのが、詩の言葉、といった勝手なイメージがある。

 だけど、「波音はどこから」の、ごく一部分、検査の場面の描写だけでも、そうした一般的な「詩のかたち」に添っていないのに、そこに配置された言葉は、やっぱり、散文とは微妙に違う感触があるような気がする。

検査着の紐の結び方を気にしつつ、看護師の怒涛の説明を受ける。話の速度に追いつけなくて「マンモは初めてなんです」と漏らせば、「だから今説明している次第です」と張りついた笑みでぴしゃりと返される。「力抜きましょうね」。彼女は背後にぴったりとついて、私の脇からわずかな肉を胸に寄せながら、耳元で告げた。
「痛いでしょうけど、勝手に動かないで」

 コロナ禍のドキュメンタルな詩だけではなく、未熟な読者としての勘違いかもしれないけれど、他にも、こうした、その場面に憑依できるような感覚になれる詩が並んでいる。

おすすめしたい人

 やっぱり、大げさかもしれませんが、世の中を見るときの、自分自身の解像度のようなものを、確認したい人。

 毎日が、通り過ぎるように早く去っていって、不安に思っている人。

 そして、詩、というものに、苦手意識がある人ほど、おすすめしたいような気持ちにもなります。



(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。






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