読書感想 『思いがけず利他』 中島岳志 「“人のため”の本質」
「利他」という単語をあえて使わなくても、「人のため」ということは、ずっと気になっていて、気にしていることを広言するのも、微妙な恥ずかしさや、後ろめたさがあった。
それは、世代や個別な感覚によって違いはあるにしても、「人のため(利他)」と「偽善」という言葉を、完全に切り離すことが難しいと考えていたせいもあった。
ただ、そのことを改めて考えるようになったのは、家族の介護を始めて、私などよりも、もっと自然に「手を差し伸べる人たち」に出会うようになったせいだった。家族だから、という義務感だけでなく、そこにはもっと自然に、気がついたら誰かを助けてしまう人たちがいるような気がしたからだ。
さらに、個人的には、19年間の家族を介護する生活が終わってから約1年後には、コロナ禍になり、街中にマスク姿があふれ、それがスタンダードになった。
ほどなくして、若いほど感染しても重症化しにくい、という話がされていたので、若い人がマスクをしているのを見るたびに、同調圧力もあるのかもしれないけれど、それだけでなく、自分は、かかってもひどくならないとしたら、人に感染させないための「利他的」な姿に見えていた。
だから、「利他」について、東工大ではプロジェクトのように研究・調査をしているらしいと知り、その成果については、かなり気になっていた。そのメンバーの一人である中島岳志の著書を読んだ。
「思いかけず利他」 中島岳志
「利他」については、コロナ禍が、よりきっかけになっているという認識は、著者にもあるようだ。
私たちは「巣ごもり」をしました。大切な人とも会えない。生きがいだった社会的活動も制約される。勉強も仕事も、思うように進まない。そんないらだちの中、「ソーシャルギフトサービス」(e-Gift)の市場が、若者を中心に拡大しました。高価な贈り物ではなく、日常のささやかな感謝を伝えるために、ささやかなギフトを贈る。スマホ経由でコーヒー一杯などのギフト券を贈る、いわば「ちょこっと贈与」が話題になりました。
そういった話題から本書は始まり、「合理的利他主義」や、立川談志の追求した「文七元結」。「こんな夜更けにバナナかよ」や親鸞。様々な思想や、人物までを視野に入れ、それが、「利他」で結ばれるように内容が展開していくので、意外性もあり、それほど厚い本ではないのに、「豊かさ」が感じられる。
その中で、「利他性」と強いつながりを持つと一般的には思われる「共感」の危うさをも含めて、とても慎重で冷静な見方をしているところが、まず、信頼が置けると思ってしまった。
共感のあやうさ
しかし、一方で注意深くならなければならないこともあります。
共感が利他的行為の条件となったとき、例えば重い障害のある人たちのような日常的に他者からの援助・ケアが必要な人は、どのような思いに駆られるでしょうか。
おそらくこう思うはずです。
―― 「共感される人間でなければ、助けてもらえない」
人間は多様で、複雑です。コミュニケーションが得意で、自分の苦境をしっかりと語ることができる人もいれば、逆に他者に伝えることが苦手な人もいる。笑顔を作ることも苦手。人付き合いも苦手。だから「共感」を得るための言動を強いられると、そのことがプレッシャーとなり、精神的に苦しくなる人は大勢いるでしょう。
「助けてあげたくなるような人」にならなければいけない。それは、「キモくて金のないおっさん」問題として、困窮していても、共感されにくい人は支援されない、という指摘もされているのだけど、そこに正解はないと思うし、恥ずかしながら、自分がすぐに何かを分析できるような能力もない。
ただ、「共感」ばかりが強調されるあやうさを、改めて指摘する意味はあるのは、わかる気がする。
いずれにしても、「共感」は当事者たちにとって、時に命にかかわる「強迫観念」になってしまうのです。
手を差し伸べてしまう人たち
「利他」を考えるとき、難しいと感じるのは、「利他」と思った瞬間に、それはすでに「利他」ではなく、「利己」になってしまうからではないか、と思ったりするせいもある。
そして、そんな思考を巡らせること自体が、「利他」から遠いと思えてくるのは、例えば、「ボランティア」を行う人たちの、こうした表現に接したりするからだ。
彼ら・彼女らは、災害が起こると、何か考える前に身体が反応すると言います。ボランティアに行く意義や価値などを考える間もなく、まずは現場に駆け付け、すぐに活動に取り掛かる。これは「ボランティアに行く」という表現よりも「ボランティアに行っちゃう」という表現のほうが近いかもしれません。
自分のことに引きつけすぎてしまうのだけど、ここで改めて思い出すのが、介護をしている約20年の間に知り合った人たちのことだ。その人たちは、家族を介護しているから「利他」とは遠そうにも思えるのだけど、もしかしたら、他人であっても、そこに困る人がいれば、自然に助けるのではないか、と思えていた。
そして、そのことを「ルソー」が指摘していることも、後で知った。
「あわれみは自然の感情であり、それは各個人においては自己愛の活動を和らげ、種全体の相互保存に協力するものであることは確かである。われわれが苦しむ人たちを見て、反省しないでもその救助に向かうのはあわれみのためである。また自然状態において、法律や風俗や美徳のかわりをなすのもこれであり、しかもどんな人もその優しい声に逆らう気が起こらないという長所がある」。『人間不平等起原論』
この場合、「あわれみ」というのは、「同情」だったり、上からの施し、といったようなネガティブな意味合いが、現代ではついてしまっている部分もあるのだが、それは、「困った人がいたら、考える前に、手を差し伸べるような人」という意味だと思う。
そして、そうした「あわれみの人」(「手を差し伸べる人」)が、人間の社会を存続させてきたのではないか、という言い方も、ルソーはしている。
理性によって徳を獲得することは、ソクラテスやそれと同質の人々のすることかもしれないが、もしも人類の保存が人類を構成する人々の理性だけにたよっていたならば、人類ははるか昔に存在しなくなっていただろう。
この「手を差し伸べる人」は、とても「利他的」ではないか、と思う。
「利他」の偶然性
「終わりに」も含めて278ページの本だから、それほど厚い本ではない。だけど、読み終わった印象は、その分量以上の「幅の広さと深さ」だった。
立川談志が追求しようとした「文七元結」。「自己責任論」。土井善晴の目指す「人間業ではない料理」。親鸞。「支配と統御」。「利他は死者からやってくる」など、「利他」を論じるときに考えなくてはいけない「多面性」について、私のような教養の足りない読者にとっては、意外性すら感じるような事柄にまで、おそらくは漏れなく触れているのに、バラバラな印象は少ない。
同時に、その内容の豊かさが、ある種の重さになっているせいか、ゆっくりと読み進めるしかなくなる感覚もあるのだけど、それは、進みにくさではなく、丁寧に歩くべき道を示されているような気持ちになる。
だから、最後になって、序盤で触れた落語「文七元結」に戻っていき、一応の結論にたどり着いても、それは、納得もできたし、気がつかないうちに、身に染みていくような気がした。
長兵衛はなぜ利他の循環を生み出すことができたのか。
それは偶然通りかかった吾妻橋で、「身が動いた」からです。身を投げようとする青年を目の当たりにして、思わず駆け寄って抱き寄せた。そのとっさの行動が文七に受け取られ、利他を発動させることになったのです。
全てを読み通した上で、本のタイトル「思いがけず利他」が表すような、「ここ」にたどり着くというのは、とても「豊かな体験」だと思います。
時間があるときに、ゆっくり何かを読みたい。これからのことも含めて、どう生きればいいのか?を考えたい。やや大げさですが、そんなことを少しでも思う方は、ぜひ手に取って読み通すことをおすすめします。
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