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汽車の窓から、「貝塚」を見つけたことを、考える。

 歴史の教科書で、モースという人が、貝塚を発掘した、という話は知っている。そのことは、暗記や歴史が苦手な私でも覚えている。それが、日本の考古学の始まりと言われていたようだったからだ。


大森貝塚の発見

 ただ、それがどのような経緯だったのかを知ったのは、もっと年月が経ってからだった。

 モースは、明治10年6月17日、日本近海に生息するシャミセンガイなど腕足動物(わんそくどうぶつ=2枚の殻を持つ海産の底生無脊椎動物)の研究のため来日し、明治10年6月19日、横浜から東京に向かう汽車の窓から貝層を発見したのです。

 明治10年9月〜12月には日本初の科学的な発掘調査が行なわれ、明治12年、日本初の発掘報告書となる“Shell Mounds of Omori”と和文版『大森介嘘古物編』を出版。このことから大森貝塚は、「日本考古学発祥の地」となっています。

(「東京とりっぷ」より)

 このことを知った時に、なんだか不思議な気持ちがした。

 基本的に、こうした考古学に関するものは、地面を掘って発掘する、というイメージで、モノが見つかってから、初めてそこに遺跡があった、と気づくと思っていたから、汽車の窓から見つける、というのは、かなり意外だったからだ。

 しかも、モースは「腕足動物」の研究のために来日、というのだから、本当に専門ですらなかった可能性すらあったと思う。

 そういう人が、日本の考古学史には重要な発見をしたのだった。
        
 しかも、汽車の窓から

日本における鉄道は、明治5年9月12日、新橋横浜間を結んで開業したのが始まりです。正式な開業に先立ち、同年5月、まず品川横浜間が開通し、7日に仮開業となりました。所要時間は35分でした。

 品川と横浜間に、日本最初の鉄道が通ったのが明治5年。この路線だと大森を通っているはずだから、モースが明治10年に大森貝塚を発見するまでの5年、まだ誰もが乗れないものだったかもしれないが、それでも、おそらく数多くの人たちが汽車に乗っていたのに、この考古学的な遺跡に気がついていなかった。

まず品川横浜間が開通し、7日に仮開業となりました。所要時間は35分でした。現在京浜東北線に乗ると、品川から桜木町(元の横浜駅)まで約32分ですから、かなりのスピードです。

(「東京都公文書館」より)

 しかも、今とそれほど変わらないスピードで走っているのだから、その走り去る中で発見するのは、やはり、すごいのか。もしかして、もっとゆっくりと走っていたら、他の誰かが見つけたのか。

 そんなことを思うのは、現在の京浜東北線に乗って、上り列車で大森駅を発車し、しばらく経ってから大森貝塚を記念した碑が立っているはずなのに、それを肉眼ではっきりと確認することも難しく、写真を撮ろうとすると、さらに困難で、だから、よくこのスピードで、貝塚と分かったかと思うと、今だに不思議な気がする。


(電車の窓から、大森貝塚の碑などを撮ろうとすると、自分の技術のなさもあって、うまく撮れませんでした↓)。

知らない、ということ

 それは、専門外のことであっても、研究者であれば、基本的な教養の範囲内であって、見つけて当然だとすれば、明治の時代の5年の間、おそらくは多くの人の目に入っていたかもしれないのに、それが貝塚とわからなかったのは、それが考古学的に意味があることを、日本人が知らないだけだったのだろうか。

 明治になり、アジアの各国が西欧諸国に植民地化されていく中、一刻も早く西洋化して国力をつけたい日本は、大勢の専門家を西洋から招いた。そのうちの一人がモースで、専門であるはずの「腕足動物」の研究が、その当時の日本に、どのようなプラスがあると判断され招かれたのかはよく分からないが、結果として、日本では、大森貝塚の発見者として、多くの人にとって(私にとっても)考古学の人として記憶に残っている。

 モースは、知っていたから、貝塚とわかったはずだ。

 それだけ、知っていると、知らないとでは、とんでもなく差があるのが、わかる。

 江戸時代、大森からは遠くない江戸の街でも、もしかしたら、家や屋敷を建てる際に、その掘り起こした土の中から、貝塚が発見されていたのかもしれない。だけど、それが考古学的に意味があるということを知らなければ、なんだか古いゴミが、やけにたくさん出てきた、とされて、工事の邪魔ものとして捨てられていた可能性もある。

 知らないことで、歴史がわからなくなり、より知らないことが増えていく。

 こうした貝塚発見の話を少し考えただけでも、当時の西欧諸国と、日本では、その科学的な知識に関しては信じられないほどの差があったはずだ。

 これまで数多くの人が目にしていたはずの貝塚を、2日前に来日したばかりの西洋人に「発見」されてしまう。

 それは、当時、どのようなこととして、捉えられていたのだろうか、とも想像するのだけど、考古学というものが存在しない世界では、その意味自体がわからない、ということだったのだろうか。

 そんなことを思うと、なんだか不思議な気がするが、文明開化の明治の時期には、似たような無数の出来事が起こっていたから、それほど気に留められていなかったのかもしれない。

2つの貝塚

 この大森貝塚に関して、大田区と品川区で、2つの記念碑があるという話は知っていた。

実は品川区にある大森貝塚遺跡公園のほか、大田区側に「我国最初之発見 大森貝墟 理学博士佐々木忠次郎書」と記された「大森貝墟」があり、横を東海道本線が走ることからいかにもこちらが大森貝塚という雰囲気になっています。

モースの発掘調査の記録には大森村と記されていたため、長い間、品川区説と大田区説(大田区山王1)という2つの説があったのです。

東京府がら「大井村2960番地字鹿島谷」(現在の品川区大井6丁目)の土地所有者(地主・殿村平右衛門)に土地の補償費として50円を支払った記録が発見され、さらに大田区側からはめぼしい遺物が発見されていないため、現在では品川区側だったことが判明しています。

(「東京とりっぷ」より)

 日本の考古学発祥という華々しさの一方で、どうして、学術的という言葉とは裏腹に、こんな厳密さとは遠いことが起こってしまったのだろうか。

モースたちは東海道本線大森駅を発掘調査の起点とし、発掘当初は大森村と推測していたため(実際は大井村)、大森貝塚という名称が生まれました。

 私も、大田区に住んで20年以上が経つので、大田区が大森と蒲田という名前から生まれたことも知っているので、大森の貝塚だったら、当然、大田区だと思い込んでいた。だけど、大森村ではなく大井村だとすれば、今も京浜東北線で大森の隣は大井町で、近いとはいっても品川区になる。

 調査をすれば、大井町であり、品川区であるのは明らかなのだけど、今でも大田区の大森駅のホームには、「日本考古学発祥の地」碑がある。(見出し写真です)。

 そして、大田区内にある碑に記してある「佐々木忠次郎」という人は、東大でモースの指導も受けているし、大森貝塚の発掘調査にも関わっている、という。 

 そうした人が名前を刻んでいれば、この石碑がある方が本物と思ってもおかしくない。ただ、佐々木忠次郎も、肩書は昆虫学者になっているが、それでいて発掘調査にも関わっているのだから、当時は、学問の縦割りが緩やかだったのか。もしくは研究者となったら、一般教養として、あらゆる学問に関われるのならば、関わる、という状況だったかもしれないけれど、事情が単純ではないのは想像できる。

 本来ならば、大井貝塚になるはずだったのに、大田区ではなく、品川区にある「大森貝塚」という名称が、日本考古学の始まりになってしまったのは、すでに、微妙な歪みが生じている感じもあるのだけど、改めてどうして、こうなっでしまったのだろうか。

2つの貝塚の理由

 大森貝塚の発見者であるモースの経歴を見ると、こうした2つの貝塚ができてしまった理由も少し推測できる。

 進化論の観点から腕足動物を研究対象に選び、1877年明治10年)6月、腕足動物の種類が多く生息する日本に渡った。文部省に採集の了解を求めるため横浜駅から新橋駅へ向かう汽車の窓から、貝塚を発見。これが、後に彼によって日本初の発掘調査が行なわれる大森貝塚である。訪問先の文部省では、外山正一から東京大学動物学生理学教授への就任を請われた。江ノ島臨海実験所を作ろうとも言われた。

 翌7月、東大法理文学部の教授に就任。当時、新設なった東大の外国人教授の大半が研究実績も無い宣教師ばかりだったため、これに呆れたモースは彼らを放逐すると同時に、日本人講師と協力して専門知識を持つ外国人教授の来日に尽力[3]物理学の教授には、トマス・メンデンホールを、哲学の教授にはアーネスト・フェノロサを斡旋した。さらに、計2,500冊の図書を購入し、寄贈を受け、東大図書館の基礎を作った。
 そして江ノ島の漁師小屋を『臨海実験所』に改造し、7月17日から8月29日まで採集した。9月12日、講義を始めた。9月16日、動物学科助手の松村任三や、生徒であった佐々木忠次郎松浦佐用彦大森貝塚を掘り始め、出土品の優品を教育博物館に展示した。9月24日、東大で進化論を講義し、10月、その公開講演もした。

(「Wikipedia」より)

  貝塚を発見してからの4ヶ月。
  モースはとても忙しい。

 これによると、モースが力を注いでいるのは、あくまでも生物学であり、貝塚は発見してから発掘まで3ヶ月もあるし、発掘は自分の弟子を使っているので、もしかしたら、この3ヶ月は誰にも言わず、その間に、自分の専門と思われる生物学に関しての活動を優先させていたのかもしれない。

 そうであるならば、貝塚の発掘現場が、大森村か、大井村かの検討は、もしかしたらおろそかになった可能性もある。

名声

 さらには、モースの功名心も関わっていたようだった。

 ちなみに、明治6年、外交官ハインリヒ・フォン・シーボルト(幕末史に名を刻んだ「シーボルト事件」で有名なシーボルトの次男)は、「東京〜横浜間にある貝塚」から石斧と石鏃を発掘してコペンハーゲン国立博物館館長に寄贈した記録があるため、実はシーボルトが大森貝塚の発見者で、モースよりも前にナウマン(Heinrich Edmund Naumann)が注目していたことが判明しています。
 モースは、『ネイチャー』1877年11月19日号に、1877年9月21日付としてモース自身が大森貝塚を発見したという記事を投稿。
 モースがかなり名声にこだわる人物だったことがわかります。

(「東京とりっぷ」より)

 この記事を読むと、大森貝塚の発見はハインリヒ・フォン・シーボルトで、それも明治6年だから、モースが汽車の窓から発見したときよりも、4年前のことになる。これが本当だったら、モースが発見者ということにならなかった可能性もある。

 それに、当時でもかなりのスピードの汽車の窓から、貝塚を発見できたのは、シーボルトが「東京―横浜間」にある貝塚から石斧と石鏃を発掘したという事実を、モースが知っていて、だから、かなりの集中力を持って、窓の外を見ていたから貝塚を発見できた、ということはないだろうか。

 そして、発掘作業をとにかく始めて、素早く『ネイチャー』に投稿したことで、発見者という事実をつくったということかもしれない。そんなふうに考えてしまうのは、モースが大森貝塚の発掘を開始したのが、1877年9月だから、その作業をしてからすぐに記事を投稿していることになるからだ。

 そうなれば、まず日本での貝塚の発見という事実が重要であって、大森村か、大井村かの違いは、『ネイチャー』でも分からないだろうし、そこにこだわっていたら、ここまで素早く投稿できず、大森貝塚の発見者という名声を、他の誰かにとられてしまう、という焦りがあって、そのことが結果として、2つの大森貝塚を生んでしまった原因になっているかもしれない。

 それに、さらに勝手な推測を広げれば、モースが日本に来たのも、ガラパゴス島で進化論の着想を得たダーウィンの行動を模倣するように、極東の島国である日本に来た可能性はないだろうか。

 そのことで、さらに新しい発見があるかも、という野心もあったのかもしれない。

歴史

 自分にとっては、かなり頻繁に利用している京浜東北線で、大森を出発し、見てないとしても通り過ぎている大森貝塚に、これだけの複雑な事情があることに、少し検索しただけでも気がついた。

 歴史的な事実とされていること。

 それも、大森貝塚よりも、もっと大きな歴史的な出来事は、視点によっては全く違う事実があるだろうことが、少しだけ想像できた。

 歴史が好きな人は、そういうところも知ってしまっているから、だから、興味を持ち始めたら、本当にきりがないのだろうと思った。




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