読書感想 『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』 「過去との戦い」
今は当たり前のように、毎日のようにカメラというよりはスマホで写真は撮られ続けているから、昔と比べて、写真家の価値や地位の変化もあるとは想像もできるのだけど、20世紀末に、若い女性の写真家が注目を浴びた時期は、写真家が今よりも輝かしく見えていたのは間違いない。
HIROMIX、という10代の女性の写真家が、自分にとって大事だと思われる身近な人たちを撮影した作品が、今のこの瞬間はすぐに過去になってしまうことを、これだけ伝えてくれるのはすごいと思ったのは覚えている。
その作品は「女の子写真」と言われて、華やかに注目された瞬間もあったのだけど、いつの間にか、そうした呼称も言われなくなったのは、誰もが当たり前に写真を撮るようになったことも関係あるかもしれない、などと思っていた。
毎日、現在の地球上で、どれだけの写真が撮影されているのか、すでに想像もつかないほどになっている。そんな時代になってから、1990年代、自身の作品を「女の子写真」といわれていた写真家の一人が、2020年に本を出した。
それは、本人が大学院に社会人入学し、そこで執筆した修士論文をもとにした、基本的には冷静で正確な書籍だった。同時に男性である私自身が、そうした写真作品の評価に対して、鈍感だったことにも、改めて気がつかされた。
『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』 長島有里枝
著者は、1990年代、大学在学中に、家族も含めたセルフヌードポートレートによってデビューをした。それは、とても印象が強いものだった。同時期に、長島だけではなく、HIROMIX、蜷川実花ら、若い女性写真家が活躍を始めたのも、覚えている。その作品は「女の子写真」ブームの中で語られていたのも、記憶している。
そして、2001年に、木村伊兵衛賞という写真界ではもっとも権威があると言われている賞を、長島有里枝・HIROMIX、蜷川実花が同時受賞したことで、そのブームはピークを迎えたという見られ方も、おそらく一般的だったはずだ。
そして、その作品の語られ方も、これまでの一眼レフのような撮影に少し手間がかかるカメラではなく、性能のいい「誰でも撮れる」コンパクトカメラの普及によって、「彼女たち」の作品が可能になったと言われていたはずで、私は自分も機械に弱く、ビッグミニを使いながら、なんとなく納得もしてしまっていた。
ただ、その言説自体が、不正確だということを、今回の長島の著書で、恥ずかしながら初めて知った。
著者は1973年生まれだから、当時20歳。武蔵野美術大学に在学中であったが、コンパクトカメラで撮影し、写真屋に依頼したのではなく、こうした写真を作品として手間をかけて仕上げているにも関わらず、そのことに言及されていた記憶はあまりない。
当時、唯一の写真評論家の文章について、この書籍では何度も引用され言及されているが、私自身は、その頃に現代美術に興味を持ち始めたこともあって、その評論家の文章も読んだことがあり、その影響によって、著者らの作品を見ていたことも思い出した。
2020年代の現在だと、私でも、そこに引用された文章に対して、それに少し同意できる感覚も持つようになっているのだけど、20世紀末当時には、男性である私には、そこまで読み取れる感覚がなかった。
それは、私自身の鈍感さでもあったし、何より知らないうちに偏見があったのも間違いないが、写真だけではなく、若い女性美術家の作品に対しても、どのような見られ方をされていたかを再検討すれば、同じような適切でない表現があるはずだと思う。
20世紀末の頃、写真評論家という中年男性の社会的な力は、優れた作品を発表していたとはいえ、まだデビューしたばかりの女性写真家に比べたら、圧倒的な差があったはずだ。
しかも、21世紀現在と違って、その考えや思いを発表する媒体も限られていたし、それこそ主に中年男性で、そうしたメディアは占められていたから、長島の持っていた正当な違和感は、広く伝えられることもなかったと記憶している。
ただ、こうして過去の評論や選評など、「事実」として残されたものを、それから20年の時間が経ったとしても、正確な指摘によって、その過去の言説が誤っていたことを、分からせるのは可能だということを、長島は証明しているようにも思う。
この書籍は、「過去との戦い」でもあるけれど、そのことによって、私のように何もわかっていなかっただの観客の過去の記憶や印象まで確かに変える力があるのは、「女の子写真」という、無意識に侮蔑的な表現も含まれた評価をされていた当事者でもあるし、その後、学んだことによって、過去への解像度がより高まり、それによってさらに説得力が増しているのだと思う。
無意識な差別
その当時から、もしかしたら現在に至っても、作品を創作している作家でありながら、女性、というだけで無意識での差別的表現といっていいことが、芸術の分野でもこれだけされていたことは、こうして明らかにされないと、恥ずかしながら、読者としての私は、ここまではっきりと分からなかった。
それは、おそらく、そうした評価をしていた「男性」が、本人の意識では、善意で親切で「僕にはわかるよ」という一方的な理解でもあり、だから保護的という「上から目線」であることにも無自覚だったから、より気がつきにくかったのだと思う。
例えば、大きな賞での選評でさえ、こうした指摘がされる。
男性作家と女性作家で、無自覚に使い分けられている言葉に対して、その読者も含めて、こうした指摘をされることも、その当時は少なかったはずだ。
女性の受賞作家の作品について、男性たちによって、それが「アートかどうか」について語られていることに対しての言及もあるが、これが、男性作家であれば、その前提から延々と話されることはないのだから、確かにおかしなことだと、今だとはっきりとわかる。(恥ずかしながら、当時はそこまで明確に理解できなかったと思う)。
ベテランの男性写真家も、1990年代当時は、(おそらく男性の)支持を受けている空気があったから、こうした発言↓をしていたはずだと、今になってようやく、そうした政治的な感覚に基づいていた言葉である可能性を、疑ってしまう。
ここで引用したのは、書籍で扱われているさまざまな言説の一部に過ぎないし、そして、その当時、華やかなスポットライトを浴びていたように見えた著者には、もっと無数の望まない光や、当事者を歪んで見せるような鏡が向けられていたのだと考えると、その苦痛については、やはり想像では追いつかないのではないか、と思った。
過去との戦い
著者がデビューしたのは1990年代。この書籍で挙げられている言説も、その時代のものが多い。そして、その後、大学院に入学したのが、2011年だから、この書籍の元になっている修士論文は、2010年代前半には完成しているはずだ。
それにも関わらず、この書籍が出版されたのが2020年で、それは、著者も書いているが、この形にしていくのに、かなりの時間がかかったから、のようだ。
過去の文献や資料を、こうして著者が研究のために読み返し、検討し、分析をしなければ、おそらくは歴史の流れの中に埋もれてしまった可能性が高いと思われる。
同時に、才能のある写真家が幸運にも同時期に登場したにも関わらず、そこに向けられた強い関心や賞賛は、その作家が若い女性というだけで、決してフェアなものだけではなく、場合によっては、そうした優れた作家の未来を潰してしまうような言説であったことを明らかにする、貴重で本当に手間のかかる作業であったから時間がかかったのではないか、とも想像する。
さらに、これは失礼な憶測に過ぎないとは思うけれど、こうした、当時は正当な反論の機会すら与えられなかった、自身へも向けられた差別的な言葉を振り返るだけでも、その当時の感情が多少なりとも蘇り、気持ちへの負担もかなりあったのではないか、と思ってしまう。
ただ、その成果としての、この書籍によって、過去の見え方すら変えられたのではないだろうか。
この書籍は、「過去との戦い」の記録でもあるのだけど、現在の美術界のジェンダーバランスの悪さを見ると、今も形を変えて続いていることだと思うし、「現在の戦い」に対して、力を与えるような作品でもあると思う。
写真というものは、すでに日常的なものになり過ぎて、プロの写真家という存在への関心は、もしかしたら以前と比べると低くなっているのかもしれないけれど、それでも、写真というものに関心がある人。
さらに、表現とジェンダーに関して、違和感を少しでも持っている人だけでなく、美術をはじめとして、表現に関心があるすべての人に読んでもらいたい作品です。
(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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