この30年の社会の停滞と、「ホイチョイ・プロダクションズ」の変わらなさについて、考える。(後編)
前編では、「ホイチョイ・プロダクションズ」の、この30年の変わらなさと、そのバブルから続く感覚が、どういうものなのかを考えた。
後編では、その感覚が、さらに、どういうものなのか?それに、そのこととの、この30年の社会の停滞との関係、そして、「ホイチョイ・プロダクションズ」と似た感覚を持つ集団について、もう少し考えていきたいと思っています。
ちゃんと遊んでいた人たち
あまりメディアには登場しないと言われる「ホイチョイ・プロダクションズ」の馬場康夫氏(1954年)と、「ちょいワル」をキャッチフレーズとしながら富裕層向けとも言われるメディア「レオン」の前田陽一郎氏が、2017年に対談をしている。
こうした言葉の一部を取り上げて推測しすぎるのは失礼かもしれないが、こうしたやりとりで感じるのは、個人的には、私は、馬場氏からは世代が下になるのだけど、それでも、バブル期にも生きてきて、随分と時代の見方が違う、と感じる。
それは、馬場氏が「豊かな階層」だから生じる違いではないか、という印象だった。
特に、昭和一桁の人は、私にとっては、自分の親の世代でもあって、確かに「大人たちの“掌返し”」を見ているから、どこかで世の中への不信感はあったと思うけれど、戦後は生活が大変だったという話をよく聞いていて、真似できない遊び方をしていた、という印象はなかった。
馬場氏が語っているのだから、そうした遊んでいる人たちは存在したのだろうし、それは、自分のひがみも入っているのだとは思うのだけど、それでも、戦後に成り上がったか、戦前から豊かだったかは分からないけれど、どちらにしても、「豊かな階層」の人たちの話(に過ぎない)だろうと思ってしまう。
そして、おそらく、馬場氏も、そうしたところに価値観があって、「お金だけではない文化」を共有できる人たち(「文化資本」も生まれながらに豊かな人たち)が「仲間」なのではないか、と思ってしまった。
これは、成金を嫌う発想でもあり、ここから、江戸時代は「知識で遊んだ」という話題にも移っていくのだけど、それは、豊かな階層でないと身につかない文化資本でもある「教養」のことも言っているような気がしたし、どこか排他的な気配も感じてしまった。
「ちょいワル」の文化
さらには、この「仲間たち」の価値観は、こうした書籍を「ネタ」として読む文化があるように、健全な真面目さではなく、どこか「少し悪い」ことを良しとするベースがあるようにも思える。(富裕層向けとも言われる雑誌「レオン」は、「ちょいワル」を看板のようにしていた)。
「豊かで、ちょっと悪そうなのをよしとする」。
そんな階層の価値観は、貧乏な私からは遠かったけれど、確かに存在していて、それが世代を超えて、受け継がれている可能性が、別の場所でも近年、あらわになったように思えた出来事があった。
この「生娘のシャブ漬け」という発言をした人物も、馬場氏とは世代は違うが、おそらくは「豊かな階層」であり、そういう人だからこそ、有能でエリートなのは間違いなのに、こうした「ちょいワル」な発言をしたがる傾向があるのではないか、と思ってしまった。
政治との類似点
経済的に豊かな階層で、ホモソーシャルな気配もあり、仲間には優しく、ちょっと悪そうなことも良しとする。
私には「ホイチョイ・プロダクションズ」の価値観は、そのように思えている部分があり、それも時代を超えて、その価値観を体現したような書籍も発売され続けているということは、一定数以上、支持している層がいる、ということでもあると思う。
それは、表面的には変わっていったとしても、歳をとったとしても、ある程度以上に豊かだから、余計にその価値観は変わらないまま、バブル以降の30年を過ごしている階層が、私のような人間からは遠くて見えないが、確実に存在しているしるしのようにさえ思える。
この階層の空気感とよく似ているのが、現在の政権与党とそれに近い政治家だと思う。
今は政治家も、2世だけではなく3世議員も当たり前だから、豊かな階層で、仲間には融通を効かせ、少し悪そうな態度をとる人物が少なくない印象がある。
例えば、元首相で、今も政権の中枢にいる政治家は、なぜかマフィアのようなファッションが目立つし、豊かな階層出身の元都知事は、ことさら差別的な言動を繰り返していた。
2021年の東京オリンピックでも、その運営に関わる人たちには、仲間内の空気感が強く、結果的に汚職にまで及んでしまっている。
女性蔑視発言でも、この20年間で、自民党が圧倒的に多い、というデータも出ている。
そうした年月の流れの中でも、「ホイチョイプロダクションズ」は、変わらなかった。おそらくは、富裕層と価値観を共有していたし、経済格差が進む中でも、バブル期の価値観を「保守」できる環境でもあっただろうから、もしかしたら、そうした価値観を象徴する存在であり続けたのではないだろうか。
それは、この社会の30年の変わらなさを、ある意味で支え続けたとも言えそうだ。
そういう意味では、政治の世界のある種の保守層の価値観と響き合い、心情的には、どこか補完し合うような関係性でもあったのかもしれない。
例えば、2020年7月に初版が発行された「不倫の流儀」の帯には、「そろそろ動きませんか?」という文字があった。
一見、不謹慎な言葉にも見えるが、同じ7月には、コロナ禍が始まり、感染が拡大し、それなのに、旅行を促進する「GoToトラベル」という政策が実施されていたから、実は政府の方針にも沿っているようにも思えた。
価値観の更新
「ホイチョイ・プロダクションズ」の書籍は、読者も「ネタ」として楽しめるように、私には、どこか「ニヤニヤ」した文体に思え、それが個人的には好きにはなれない要因でもあるのだけど、急にシリアスなトーンも、その書籍の一部に登場することもある。
例えば「不倫の流儀」も、その終盤、「人生は、ディズニーかシナトラか(あとがきに代えて)」に、こうした文章がある。
馬場氏は、ウォルト・ディズニー亡き後のディズニーには、もしかしたら、それほどの強い興味を持てないのかもしれないけれど、ディズニーは、21世紀になっても、その価値観を更新し、そのこととエンターテイメントを両立させ、今も多くの人に受け入れられる作品を制作し続けている、ように見える。
とても大きなお世話だが、もしも、馬場氏が、21世紀のディズニーにも深く学び、そのことで「不倫の流儀」の執筆を進めていれば、おそらくは、この記事の「前編」でも触れたのだけど、「ミソジニー」や「凋落した」といった批難を浴びなかったのではないか、と思う。
価値観の違い
ネタとして楽しむ、本気にしない。それが「ホイチョイ・プロダクションズ」への作品への接し方と言われても、そうした「ニヤニヤ」した態度は、個人的には好きではなかった。
今でいえば、冷笑系に近いのかもしれず、それが分からない私のような人間は、特にバブル期では、「イケてない」存在だったと思う。
そういえば、この「見栄講座」(↑)を、半分は本気で活用していた人間の方が、明らかに男女交際力は高く、楽しそうに見えていたから、現在の「ホイチョイ・プロダクションズ」への、私の見方も、若い時に「イケて」なかった人間のひがみが多く含まれているのかもしれない。
「私をスキーに連れてって」からの映画3部作も、自分にとっては縁遠かったし、今回「バブル保守」としての「ホイチョイ・プロダクションズ」のことを考えてみようと思わなかったら、その書籍を、こんなに集中して読むこともなかったはずだ。
そういう意味では、縁遠いとはいえ、その変わらなさは、確実になつかしさもあったし、もし、若い時に、「ホイチョイ・プロダクションズ」の世界観にもっと親和性があるような人間で、そのことで、もっと華やかな若い時代を過ごすことができたら、今も、もっと肯定的な思いで、その作品に接することができたのかもしれない。
さらには、自分も若い時には、女性蔑視と言われてもおかしくない言動があったと思うし、そういう点では、「ホイチョイ・プロダクションズ」を一方的に責めることもできない。それに、何の実績もない、私のような人間が、批判的なことを書いたとしても、馬場氏にとっては、「負け犬の遠吠え」にもならないはずの小さな出来事のはずだ。
「気まぐれコンセプト」
ただ、今回、これも恥ずかしい話だけど、改めて「ホイチョイ・プロダクションズ」の馬場康夫氏のプロフィールを知り、だから、ずっと距離が遠かった理由が分かったようにも思った。
基本的に豊かな階層であることも再確認できたけれど、知らなかったのは日立製作所の宣伝部に所属していた時に、「気まぐれコンセプト」を描いていたことだった。
ビッグコミックスピリッツは、当時、わりと毎週のように読んでいたから、この連載も読んでいた。毎回、広告代理店の若手社員が、主に広告を出してくれるクライエントへの対応にドタバタし、失敗するのが基本的なパターンだったと思う。
基本的な印象は、「気まぐれコンセプト」は、その広告代理店の社員を「笑う」というよりは、「嗤う」ニュアンスの強いマンガだと感じていて、そんなにきれい事を言えるような人間ではないけれど、それほど好きな作品ではなかった。
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