「人に迷惑をかけてはいけない」は、不当に「強い言葉」になり過ぎてはいないだろうか。
もし、「誰もが知っている格言ランキング」のようなものがあったとすれば、今でも「トップ3」に入りそうなのが「人に迷惑をかけてはいけない」だと思う。
二度あることは三度ある
いつから使われているか分からない古い格言のような言葉は、だいたい、両立しない2種類の言葉がセットになっている印象がある。その中で、最も分かりやすく覚えやすい言葉がある。
二度あることは三度ある。
三度目の正直。
例えば、何かの試験にチャレンジしていて、2回失敗している人にとっては、「三度目の正直」を信じたいところだけど、意地悪な誰かは「二度あることは三度ある」と言ってくるかもしれない。
2つの言葉は相反するから、「合理的」に考えたら、どちらか一つにしたいところだと思う。
ただ、両方の言葉があった方が、いろいろなことが起きる世の中の実情を、より正確に表しているとも言える。
「二度あることは三度ある」かもしれないけれど、「三度目の正直」の可能性もあるのが、「この世」だったりするのだから、どちらの言葉もあることが、人の思考を広く、柔軟にする意味はあるのかもしれない。
困った時はお互いさま
個人的な記憶の中では、例えば祖父母の世代から、確かに「人に迷惑をかけてはいけない」という言葉を聞いたような気もするが、同時に「困った時は、お互いさま」という言葉も、セットでついてきたような気がする。
この2種類の言葉の価値や意味がどちらも同等だったりすると、「人に迷惑をかけてはいけない」は、努力目標であり、できたら達成したほうがいいかもしれないけれど、少しでも考えれば、生きている間に、一度も「迷惑をかけない」ことは不可能だから、その時は「困った時は、お互いさま」を合言葉に、助けられる人が助け合えばいい、ということにつながりやすい。両方の言葉が同じように強ければ、どちらも「生きている知恵」として、必要不可欠な感じもする。
だから、「人に迷惑をかけるな」という言葉は、「困った時はお互いさま」とセットで使わないと、特に「人に迷惑をかけるな」だけが強く使われすぎると、容易に人を追い込んでしまう、と思う。
「迷惑をかけてはいけない」の歴史
親や祖父母の世代であっても、100年ほどの昔であり、人類史の尺度で言えば「新しい歴史」であっても、それを聞かされてきた世代にとっては、もっと昔からの、何百年も前から言われていること、のように錯覚してしまう。
「迷惑」の由来は「道理に迷うこと」という仏典や外典(儒教・道教以外の教えを説く書物)の用語で万葉集や平家物語でも「戸惑う」「どうしてよいか分からない」という意味で使われていた。
元々は、個人の状態を表す言葉だったようだ。恥ずかしながら、初めて知った。そして、そういったさまざまな意味合いを持つ「迷惑」という言葉が、「公衆マナー」とともに、限定的に使われるようになったのは、どうやら大正時代からだった。
第1次世界大戦後、大都市には従来の雇用形態とは質の異なる月給取りが大勢集まるようになった。その結果東京におけるサラリーマンの割合は、08年には5.6%だったのに対し、20年には21.4%に増加。それまで各村落の「風俗」を把握することで民衆を統治していた政府にも、新たな方法が求められるようになる。その結果生まれたのがlifeを邦訳した「生活」という新たな概念で、政府はサラリーマン家庭の家計などを計量的に調査することで「生活」の質を把握し、統制しようとしたのだ。統計調査に基づいた研究をもっぱら行う東京帝国大学経済学部(1919)の誕生などもその表れであるが、「生活改善運動」も同様の文脈から生まれる。こうして、通勤電車などで騒がないことや時間を厳守することなど、「公共空間」において他人に「迷惑」を掛けてはならないことが強調されるようになった。
このように、元来多義的であった「迷惑」が現在使われているような意味に絞られていったことには、戦間期という激動の時代に社会を対応させんとする政治的意図が多分に含まれていた。
つまりは、「統治の都合」によって、強調され、意味を限定されてきたのが、「人に迷惑をかけない」という言葉でもあるとも言える。
そう考えると、「人に迷惑をかけてはいけない」という言葉は、人間がともに生きている社会の中で、自然に生じてきた「生きていく知恵」というよりは、「上意下達」の「統治の理屈」として生まれたものであることは、知っておいた方がいいのだと思う。
世界の基準
あまりにも自然に「人に迷惑をかけてはいけない」が流通しているせいか、地球上のどこに行っても、それが「常識」のように思えてしまうのかもしれないが、例えば、世界を長く旅する人は、自然にそうでないことを知っているようだ。
基本的に海外の多くの国では、この「他人に迷惑をかけるな」という考え方が存在しない。
これこそが恐らく僕ら日本人が海外に行って最初に戸惑うことの一つだろう。
「人は一人では生きていけない、共に生きよう」という事ですね。
その先をあえて言うと、「だから俺を頼れ!お前も俺を助けてくれ!」となります。
このブログの筆者によると、「人に迷惑をかけるな」よりも、「人に迷惑をかけんばかりの態度で接してくるけれど、それは、俺を頼れ。お前も俺を助けてくれ」という価値観の国の方が「圧倒的に多い」という。
それは、言葉を変えれば、世界の多くの国は「困った時は、お互いさま」に、かなり近い価値観で生きている、とも言えるのではないだろうか。
どうして「人に迷惑をかけない」だけが今も隆盛を誇り、この「困った時は、お互いさま」の方は、日本では、こんなに衰退したのだろうか。
「困っている人を助けなさい」
「他人に迷惑をかけてはいけない」というのは、普遍的な道徳律だと思っている人も多いのではないかと思う。私も数年前までそう思っていた一人だった。しかし、どうやらこの教えはそれほど普遍的な規範とは言えないようだ。日本語教師をしている私の知人によれば、中国ではこのような規範を子どもに教える親はほとんどいない代わりに、「困っている人を助けなさい」と教える親が多いという。私の友人の韓国人によれば、韓国でも「他人に迷惑をかけるな」という人はいるものの、日本ほど多くはないという。
ここで、中国と韓国が例として出されているのは、文化的にはかなり近いはずの国なのに、違う、ということを伝えたいはずだが、私も、「困っている人を助けなさい」が常識になった方がいいと、本当に思う。
さらに、この筆者は、「他人に迷惑をかけてはいけない」という規範のマイナスな影響にまで言及している。
「他人に迷惑をかけるな」という規範は、人は本来、他人に迷惑をかけずに生きていくべき存在である、という含意を持ちうるため、そこから、人は元来、自力で生きていくべき存在だ、という解釈さえ導かれるかもしれない。さらに、こうした解釈が一般化すれば、何らかの窮地にある人に対して、それは自己責任だから、他者の支援を当てにすべきではないという、冷淡な態度すら助長しかねない。
そして、今は見事に冷淡な社会になってしまっている実感はあるが、この「人に迷惑をかけてはいけない」と、とても相性がいいのが、この文中にも出てくる「自己責任」だと思う。
「自己責任」の時代
「迷惑」という言葉が大正時代以降、これまでの多義性を薄められ、「公衆マナー」に関する意味合いに、ほぼ意図的に限定されていった歴史を反復するように、「自己責任」という言葉も、当初は、責任の限定を意味するような金融業界の言葉だったはずなのに、いつの間にか、今のように「とにかく人に迷惑をかけない」という意味合いに限定されるようになってきたのは、おそらくは21世紀に入ってからだった。
しかし、「人に迷惑をかけない」も、「自己責任」も、元々は無茶なことを要求していることは明らかだと思う。
少し考えただけでも、人は生まれたときには全く無力な存在であり、高齢になれば、できないことも増えていくことくらい、すぐにわかるだろう。また、高齢になるまでもなく、病気や障害など、人生の途上で出あう様々な困難によって、人の助けなしには生きていけない場面は無数にある。そうだとすると、人は誰の助けも借りず、自力だけで生きていけるような存在などではなく、他者との関係の中で、支え・支えられつつ生きていくのが本来の姿であることがわかるはずだ。
実は、「人に迷惑をかけてはいけない」という言葉も、個人的な感触で言えば、20世紀が終わる頃には、それほど強く主張されていなかったように思えるのは、もしかしたら、経済的な余裕のようなものがあったせいかもしれない。
ただ、その時代に「困っている人を助けなさい」が根付かなかったのは、残念だったけれど、「人に迷惑をかけてはいけない」という言葉は、「自己責任」とともに、21世紀になってから、再び強い言葉になっていったように思う。
「人に迷惑をかけてはいけない」と相性がいい思想は、いうまでもなく「新自由主義」のはずだ。
「新自由主義」
1980年代以降、国民国家の支配者たちーー最も悪名高いのは、イギリスのマーガレット・サッチャーと、合衆国のロナルド・レーガンーーは、ケアはそのいかなる実践・形式においてもすべて個人の問題であり、それが競争的な市場と強い国家を支えるバックボーンであると信じるよう、私たちに強く迫りました。(中略)新自由主義のもとでの理想の市民とは、自律的で、企業家的で、常にたくましく、自己充足的な人間です。こうした市民像を積極的に前面に出すことによって、福祉国家を掘り崩すことや、民主的な諸制度と市民の取り組みを消滅させることが正当化されました。
「新自由主義」で描かれている「理想の市民」は、「人に迷惑をかけない」という言葉が示す状態と、驚くほど似ているから、21世紀の日本では、大正以来の「人に迷惑をかけてはいけない」が、西洋由来の「新自由主義」が広がる時代の力によって、再び、息を吹き返したとも言えないだろうか。
トマ・ピケティといった経済学者たちは、これまでになく広がりつづける所得の不平等は、決して偶然ではなく、むしろ、新自由主義的な資本主義の根本的な構造上の特徴であり、現在も指数関数的に広がりつついるということを明晰に証明しました。そもそもの設計からして、新自由主義は、[経済以外のことは]ケアしないのです。
格差の拡大
その結果として、格差は、歴史上まれに見るほど、拡大を続けているようだ。
報告書は、富裕層トップの多くが自らの富を維持・拡大するために、多額のお金を積んでロビイストを雇っているなどと指摘。さらに、タックスヘイブンなどの税金逃れも所得格差の拡大の原因のひとつだとして、裕福な個人と企業の税率の引き上げや、法人税を引き下げるような国家間の競争の取りやめを求めている。
こうした「富裕層トップ」の姿や気配すら、わずかでも見かけたり、感じた記憶はない。それだけ、別の世界に住んでいるように思っているが、私は社会の片隅で貧乏に、それでも、なるべく「人に迷惑をかけない」ように生きているつもりだけど、この富の偏りや、「税金逃れ」のことを考えると、自分の生き方自体が、この「富裕層トップ」の富に貢献しているような気もしてくる。
「富裕層トップ」には、「困っている人を助けなさい」という言葉は届いていないのだろうか。それとも、「困っている人を助け」ていたら、「富裕層トップ」にはなれないのだろうか。
基本的に僕は、生活保護とかベーシックインカムとか、その手の施策を強化するのはいいことだと思っていますが(中略)
この中からもし成功する人が出てきたら、「自分はたまたま成功したにすぎない」と思って、隣の席にいる、同じように才能があった、たまたま失敗したにすぎない人を助けてあげてください、っていうのが僕の答えですね。
そういう世界観で、僕は生きてますんで。はい。
若くして亡くなってしまったが、資本主義の真ん中で富を得た上で、「困っている人を助けなさい」と説いていた瀧本哲史という人が確かにいたことは、それでも、希望につながるようなことだと思う。
「ケア」という視点
2020年から、新型コロナウイルスは世界中に感染し、パンデミックという状況になった。
パンデミックは、これまで最も無視され、権利を奪われてきた市民、とりわけ高齢者、女性、黒人やアジア人をはじめとするマイノリティ(BAME)、貧困者や障がい者たちを直撃する、ということを。こうした現状は、グローバル・ノースのその他の諸国においてもさほど変わりません。
平時に「困っている人」が、緊急時に、より「困ってしまう」のが現状で、それは、決して他人事のようには語れないものの、今の状況が急に訪れたのではなく、「人に迷惑をかけない」が繰り返されてきた結果として成り立っていることは分かる。
なぜ相互依存のこれらの形態、そしてケアそのものが、くりかえし価値を貶められ、病理化までされているのでしょうか。
一つの理由は、自律と自立がグローバル・ノースにおいて、歴史的にいかに重視され、「男性的」とジェンダー化されてきたかということと関連しています。
「ケア」の思想の重要性を少しでも理解し、そして、それが本当に広がった方がいいと思いながらも、「自律と自立」≒「人に迷惑をかけない」。を重視する流れが、国内だけのことが原因でないと改めて知ると、この流れを変えることは、不可能な気もしてくる。
「誰にも迷惑をかけない社会」
誰にも迷惑をかけない社会とは、定義上、自分の存在が誰からも必要とされない社会です。
誰にも頼ることのできない世界とは、誰からも頼りにされない世界となる。
僕らはこの数十年、そんな状態を「自由」と呼んできました。
「人に迷惑をかけない」ということを徹底すると、みんなが孤立した社会にしかならない。それを想像すれば、そんな社会が幸福とはとても言えないと思う。
そろそろ、「人に迷惑をかけない」という言葉が、それほど長い歴史を持つものでもないし、元々は、「統治の都合」のためであり、決して、普遍的な正しさを持っていないことは、確認してもいいのではないだろうか。
そして、「困ったときはお互いさま」の復権と、「困っている人は助ける」といった言葉を、意識して重視するようなことから、とても小さいことだけど、始めるしかないのかもしれない。
(他にもいろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでいただければ、うれしいです)。