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ドラマを見て、「専門性」と「当事者性」と「総合知」を考えた。
ここのところ、毎週見ているドラマのうちの一つが、「イチケイのカラス」で、登場人物に実際のモデルがいると知り、勇気づけられる部分もある。
一緒に見ている妻は、毎週のように涙しながら見ていて、私も基本的に面白く、興味深く見ているのだから、有難いと思っている。
医師の言葉
裁判官が主人公なので、その舞台のかなりの時間が法廷になる。
そして、そこで様々なドラマが生じるのだけど、本筋とは違うのだけど、補強の材料としての言葉として、5月31日放送回で、医師が証言台に立つ場面があった。
命の危険にさらされていた被害者に対しての被告の態度について語るのだけど、その医師が、そういうギリギリの場面での人の気持ちに数多く接しているから、その被告の状態への見立てに関して、説得力がある。という後ろ盾として、こんなエピソードが語られる。
高齢者が、誤嚥で救急車で運ばれる。そして、懸命の治療の末に助かると、同伴している家族が長年介護をしている場合には、ガッカリしているような場合もあります。
それが厳しい場面でこぼれる、人間の真実みたいな話として語られていたのだけど、フィクションとわかっていても、瞬間的に反発と抵抗を感じた。
感情的な反発
このドラマのこの場面では、必然性もあったし、間違いなわけでもないし、この場面だけに反応するのは、どこかおかしいのだろうけど、それは、個人的な経験に過ぎないが、家族の介護を19年間していたことがあったから、反発と抵抗を感じたのは間違いない。
もちろん当事者性があるからといっても、それが正しいわけでもないのだけど、反発を感じたのは、介護という現場で起こっていることが、外側に伝えられる場合に、そこに関わっている専門家がいてこそ、家族も介護を続けられるのは事実で有り難さもあるのだけど、そこで、外へ伝えられる時に、医師の言葉は、介護者から見ると、あまりにも重視され過ぎているように思うことが多かったから、まず感情的な反発が起こったのだと思う。
どうして、こういう時に、まず医師の言葉なのだろう。
実際の介護者の気持ち
これも個人的な体験に過ぎないけれど、例えば、20年近く介護をしていて、体も心も消耗して、いつまで続くのだろうか、とか、もう終わりたい、といった思いにもなったことは、何度もあった。
だけど、義母が103歳で急に意識をなくして病院に運ばれた時も、助かってほしいと思っていた。M R Iをとって、もう脳梗塞がこれだけ広がっていて、あと何日か、と言われても、どこかで、ここまで生きてきたのだから、また何か奇跡的なことが起こって、持ち直すかもしれない、という気持ちがあった。
それは、少しでも冷静に考えたら、ありえないことだけど、そんな思いが強く、亡くなると思って、ホッとする気持ちは、その時はなかった。
別に、それが普遍的なことでもなく、正しいわけでもなく、美談でもなく、ごく普通の感覚でもあると思うのは、ここまでの介護生活の中で知り合った介護者の方々であれば、同じような状況で、似たようなことを感じるであろうと、思ってきたからだった。
もちろん、介護を長くしているほど、色々な思いがあって、だから、誤嚥などで病院に運ばれて、命がなくなることになった時に、ホッとする人もいるかもしれないし、自分だって、そんな気持ちが全くないわけではなかったけれど、でも、それが人間の真実、のように言われると、同意するのは難しい。
だから、ドラマの一部に過ぎないけれど、要介護者の命が助からなかったことで、ホッとする家族介護者、みたいなイメージにつながる場面があるかと思うと、なんだか嫌な気持ちにはなる。
少なくとも、救急に関わった医師が、ホッとすることもあるし、当然、悲しむ人もいるし、同じ人が両方の思いに揺れる場合もある、といった見方をした方が、本当のことに近いのだと思う。
そんな証言をすると、ドラマの進行上、ややこしさが生じて、ノイズになる可能性はあるかもしれない、と思いながらも、何とかならないだろうか、とも考える。
クレームの声
終末期の延命措置については、まだ色々な議論が必要だし、今の時点でも問題は多いと思うけれど、それについては、ここで簡略にまとめることは自分の力もなくてできない。ただ、そういう議論をするときに、時々聞くのが本人ではなく、家族にまつわることなのは、気になる。それも、なぜか、家族が悪者、のようなニュアンスで語られることさえある。
医療関係者が講演をして、100人以上の聴衆が集まった時、治療の判断などに、家族が出てきて、クレームのように関わることで、正しい判断に対してマイナスになる、といった言い方をしていて、それについては、何かを言いたい気持ちになった。
私自身も、家族も、20年の間に知り合った人たちも、そういう時に、クレームのようなことを言って、マイナスなことをさせた人はいないと思う。逆に、何か言いたいことがあっても、家族が入院していたりする場合は、人質をとられているから、といった表現で、なかなか言いたいことも言えない人の方が多いと思っていた。
ただ、誰にとっても、何かを言ってくる人の印象の方が強くなる。例えば、インターネット上の炎上についても、それに積極的に参加しているのは0・5%に過ぎない、という研究もある。
クレームの声は実際よりも大きく、数も多く感じてしまうのは、仕方がないと思うけれど、社会的な力がある人ほど、そのクレームにも思える(それが本当にクレームかどうかもわからないが)ことに対して、反射的な反発心も生まれやすいのかもしれないが、それよりも、できたら、もっと多数の「黙っている人」たちが、どう思っているのかに対して、考えてほしい、と思う。
そんなことを、その大きい会場での、講座の質問の時間に伝えたいと思ったのだけど、先行する質問者の話が長くなって、機会を失ったのと、やはり勇気がなかった。ただ、その後の経験からいっても、そうしたことを伝えて、嫌な顔をされる可能性も高かった、とも思う。
「専門知」と「総合知」
ドラマだからフィクションだとしても、医師の言葉は専門家としての言葉でもあり、おそらく何らかの裏付けはあると思われる。その一方で、視聴者である私自身の気持ちは「元・家族介護者」という「専門性」はあるのかもしれない。
それは、どちらも正しいのかもしれないし、それで対立したり争うのでもなく、本来であれば、どちらも共存しているのだと思う。それが、今の時代を生きていると、何となく「どちらが正しいのか?」という争いになりがちだし、自分の中でも、そんな気持ちになっていることに気づく。
もしかしたら、それは、「専門知」だけが重視されることで生まれる対立構造かもしれない、と思ったのは、この本↓を読んだせいもある。
そのとき頼りになるのは、厳密ながら細分化された専門知というよりも、むしろ評論家が提供するような、ざっくりとした社会の見取り図ではないだろうか。総合知というのは、これのことである。
これは、著者のうちの一人である辻田真佐憲の「前書き」で、本論でないのかもしれないけれど、例えば、現在のコロナ禍のように、未知の出来事に対して、どう対応していくかになると、専門知だけでは十分でなくて、この辻田の述べているような「評論家が提供するような、ざっくりとした社会の見取り図」の方が、判断を誤らないのではないか、という指摘だと思う。
それは、やや強引だけど、自分自身がドラマの一場面で感じことへの応用もできるように思った。
フィクションとはいえ、医師の言葉の「専門知」だけを重視するように思えたけれど、かといって、介護当事者の声だけでも、全てではないから、その両方を「ざっくりとした」見方をする「総合知」が提示された方が、より実践的で役に立ち、医師と介護者の両方に納得のいく言語となる可能性が高いように思った。
(他にもいろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでいただければ、うれしいです)。
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