「一人で抱えこまないで」は、いつも適切な言葉なのだろうか?
自分が仕事もやめて介護に専念している頃に、一時期、よく聞いた言葉があった。
「がんばらない介護をすることが大事」
がんばらない介護
それは、基本的には正しいし、できたら目標としたいことではあったのだけど、その言葉を目にするたびに、心の中でつぶやいていた。
私も、できたら夜もよく眠れないようながんばり方をしたくはない。だけど、自分しか介護をする人がいないのであれば、どうしてもがんばりすぎくらいでないと、介護を続けること自体が無理だ。
がんばらない介護。とてもいい言葉だけど、それが大事だと主張するのであれば、それを言っているあなた(この場合は、そのことを書いている著者だったりもするが)が、1日に2時間でいいので、代わりに介護をしてもらえないでしょうか。だけど、私が安心できるような介護を本当にしてもらえるかどうかが、不安です-----そんなことを、思っていた。やや黒い気持ちでもあるのは間違いなかった。
そのうちに、この「がんばらない介護」という言葉はあまり聞かれなくなった。
2000年から運営が始まった介護保険が、5年ごとの「改正」のたびに、サービス抑制の一方向にしか進んでいるようにしか思えない日本の介護環境では、その「がんばらない介護」は、あまりにも非現実的だと理解されてきたせいだろうか。
一人で抱えこまない
自分が介護をしている頃に、介護者には何より心理的な支援が必要ではないか、と痛切に感じるようになり、そのことに取り組んでいる専門家が見当たらないように思ったので(どちらにしても少ないはずなので)、自分でもその支援に関わろうと考え、勉強を始め学校へ通い資格もとった。
そのことで、介護者の心理的支援をする仕事も幸いにも始められたのだけど、その頃から、よく聞いていて、今も支援の現場でも、さらには、テレビのCMなどでも聞こえ続けている言葉がある。
「一人で抱えこまないで」
特に介護の世界では、常識のように語られているのだけど、それを聞くたびに違和感があったのは、この言葉自体は正しいけれど、いつも適切なのだろうか、と思うからだ。
現在、家族の介護をしている家族介護者の多くは、主に一人で介護をしている。ただ、自身が介護者であったときや、支援として介護に関わってきた、この20年間の印象でも、それは、一人で介護をせざるを得ない環境にある場合がほとんどだった。(私自身は幸いにも、妻と二人で介護をしてきたけれど)。
だから、苦しい中でも、一人で介護を続けているし、いろいろな工夫や努力をして介護を毎日継続している。他に誰かに頼りたくてもそれができない状況である場合がほとんどだと思われる。
そんな人に対して、介護は「一人で抱えこまないことが大事」などという言葉が向けられたら、どう感じるだろうか、と想像する。
そんなことはわかっていても、でも、どうしようもなくて、一人で介護を続けている状況を否定されたような気持ちにならないだろうか。それは、「がんばらない介護」という言葉を向けられた私と、もしかしたら似た思いになっているのではないだろうか。
確かにおっしゃる通りだ。だけど、他に誰もいないから、私が介護をするしかない。そんなことを言うのであれば、それを言っているあなたが、私の介護を分担してくれるのだろうか。そうなれば、「一人で抱えこまない」で済むから----。
そんな気持ちになっていないだろうか。
適切なタイミング
介護に関して「一人で抱えこまない」ことは確かに大事で、できたら、そのように介護ができたらいいとは思う。だけど、その言葉を向けるタイミングはあるはずだ。
たとえば、まだ介護に関わっていない人に対しての啓発活動として伝える時。
介護が始まったばかりで、まだ介護体制や介護生活も定まっていない場合。
他の誰かに介護の分担を頼めそうなのに、それにためらっている状況。
そういう場合であれば、「一人で抱えこまない」は、適切な言葉になり得るけれど、何の希望も見えず、一人で介護をせざるを得ない状況にいる人にとっては、かなり残酷な言葉になることさえ考えられる。
だから、介護の場面での「一人で抱えこまない」は、使うとしても適切なタイミングがある。それを間違えると、かえって、介護者に負担を増やしてしまうことさえあるはずだ。
そのことを、支援の仕事をするようになってからの10年間で、ことあるごとに伝えるようにはしてきたのだけど、自分の力不足もあって、まだ常識にはなっていない。
自然な状態
考えたら、支援の言葉として、この「一人で抱えこまない」は、似たパターンはいくつもあるし、よく目にするし、耳にする。
「一人で悩まないで」もそうだろう。もちろん、その言葉で救われる思いになる場合もあるだろうし、そんな言葉が誰にも向けられない社会よりも、ずっといい世の中だとは思う。
だけど、「一人で抱えこまない」に対して感じた違和感と似たものを、そうした「一人」に関する支援の言葉に感じてきた。
一人で抱えこむで。
一人で悩むないで。
そうした状況に対する支援の言葉は、こうした一人の行為に関して、少し冷たいような気がするからだと思う。
何か困難なことがあったとき、できたら、誰かに相談したい。だけど、困った時ほど、その相手が大事な時ほど、心配をかけたくない気持ちになることもある。それに、もともと、そんなことを相談できるような相手がいる方が、実は少数なのではないだろうか。
だから、自分一人でなんとかしようとする。
「迷惑をかけちゃいけない」や「自己責任」や、「まず自助」といった社会の圧力は、まだ弱まっていないどころか、強くなっているようにさえ感じる。
そうした空気を敏感に感じる人ほど、一人で抱え込んでしまう。また、周囲の人への気遣いをする人ほど、「迷惑をかけちゃいけない」と思って、一人で悩んでしまう。
だから、一人で抱え込んだり、一人で悩んだりしている人たちは、自分のことだけではなくて、周りのことまで考えられるから、そういう状態になっている場合も少なくないと思う。
もし、困ったときに、頼れる相手がすぐにいれば、一人で抱え込んだり、悩んだりしなくて済むけれど、今の日本の社会では、それは一部の恵まれた人に限られるような印象がある。
だから、一人で抱え込んだり、一人で悩んだりする状態は、ごく自然な状態でもあり、同時に、他の人に迷惑をかけずに、なんとかしようと頑張っているのだから、まずはきちんといたわられ、ほめられるべきことではないだろうか。
支援の言葉
もしも、「一人で抱えこまないで」や「一人で悩まないで」といったことを支援の言葉として、誰かに向けることがあるのであれば、そのまま、使ってはいけない場合もあるような気がする。
もしかしたら、好き好んで、一人で抱え込んだり、一人で悩んでいるのではないのかもしれない。
誰かに協力してもらったり、誰かに話を聞いてもらったりしたいのに、それができないだけであったら、そうした時に、支援の立場だったら、ただ「一人で抱え込んではだめ」とか「一人で悩んではいけない」などとは、場合によっては、言ってはいけない可能性もある。
実際に言葉として伝えるかどうかは別にして、もし支援者であれば、一人で抱えこませるような環境のままで申し訳ない。本来であれば、困難を抱えた場合に、もっとスムーズに相談できるような公共のサービスがあってもいいのに、そのことに関する告知の不足も含めて、さらにそうしたサービスを充実させることができていない。支援者としては、そういう状況を招いていることが申し訳ない。そんな、後ろめたさがあっても自然ではないだろうか。
そういう気持ちを前提とするならば、そして、一人で抱えこまないで済むような対応がすぐにできる体勢を整えた上でならば、「一人で抱えこまないで」という言葉は適切になるのではないだろうか。
こんなことは、支援に関わっているとはいえ、まだ10年ほどの人間の、もしかしたら、まだ支援の大変さを本当の意味で知らない人間だから言えることかもしれないけれど、それでも、「一人で抱えこまない」や「一人で悩まない」は、状況によっては、かえって人を追い込む言葉になるのではないか、と思っている。
だから、「一人で抱え込まないで」は、いつも適切な言葉とは限らない。
今は、そんなことを思っている。
ただ、もちろん、こうしたことに関しては、いろいろな見方があると思いますので、疑問点やご意見などがありましたら、コメント欄などでお伝えくだされば、ありがたく思います。
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