読書感想 『いなくなくならなくならないで』 向坂くじら 「あいまいな日常の緊張感と混乱」
芥川賞の候補作。
誰が選んでいるのか、といえば、すごく単純化していえば、出版関係者のはずだ。
だけど、考えたら、出版社に入社する人間が、必ず小説好きとは限らない。もしくは、読むプロとして働き始めているわけでもない。そんなことを考えると、小説家が時折書いている、編集者と(どこまで本当かわからないとしても)もめている、という描写もなんとなくわかるような気もする。
だけど、芥川賞は、文藝春秋という出版社主催の賞にすぎないのに、今もまだ小説界の権威になり続けているのは、まだ歴史的にはそこまで長くないけれど、吉本興業という会社が中心になっているのに、M1が漫才界での権威になっている状況と似ているような気もする。
それは、一つの会社主催、ということを超えて、その業界の一つの大きな基準になっているという意味で似ていると思えるのだけど、それは、関わっている人の多さ、という歴史が確立させているのかもしれない、などとも思う。
そうした状況があるので、入社時は素人であった編集者も、その歴史の流れの中でもまれて鍛えられて、プロになっていくのではないか。といったことを考えてしまうのは、芥川賞受賞作だけではなく、候補作も、いつも、読者としてまだ未熟なのではないか、と思わせられるような手強さを、抱かされる気がするからだった。
今でも、芥川賞っぽさがあるかも、と思うことが多いけれど、それは、新しさ、というものではないかと、今回も感じた。
(※ここから先は、小説の内容を引用したりしています。読む前に情報に触れたくない方は、注意してくだされば、ありがたく思います)。
『いなくなくならなくならないで』 向坂くじら
タイトルがわからない。
覚えられない。
だけど、覚えたくなるし、どんな意味かも知りたくなる。
かなりトリッキーなタイトルだし、設定もトリッキーだと、冒頭で思った。
このファントムバイブレーションシンドロームは、実はかなり前から言われているらしいのだけど、そこからも、変わった設定とも言えるのだけど、どこかで読んだ気もした。
主人公は、大学に通っていて、もうすぐ卒業する頃だった。
そんな大事な存在で、だから死んだと聞かされて、当然のようにいろいろなことがあったことは、もしも、具体的な描写がなかったとしても、主人公の時子にとっても、いろいろとあったと想像してしまう。
読者も、死んだはずの人間から電話があって、会って、当たり前のように生きている人間としてそこにいたとしても、これから何かあるんじゃないか。主人公しか見えないのではないか。そんな、これまで、どこかで見聞きした、似たような設定のことをいくつか思い出していた。
だから、読んでいる文章から気持ちが離れて落ち着かないような時間も含めて、この小説の持ち味なのだと思っていたけれど、それが正解かどうかも、わからない。
それに、読み始めてまもない頃でも、この小説のタイトルの全部を正確には覚えていなかった。
あいまいな緊張感
主人公の時子は、朝日と一緒に住み始める。
それは、一人暮らしの大学生の部屋で、2段ベッドを二人で使うような、よくある若い人間の共同生活だった。
それでもよくある設定と違うのは、朝日が、本当に生きている人間なのかどうか。それがはっきりしないまま、主人公の時子と共に、読者も考えて続けてしまっているからで、だから、朝日のわからない点についても、やはり勝手に想像をしてしまって、ずっと宙吊りな気持ちが続いていく。
それは、時子の、「知りたいけれど、知りたくない」だった。だけど、読者の、知りたいけど、はっきりと知って、想像していたどれかの「事実」とわかりたくない。といった思いと、どこか重なり合う気持ちになるし、部屋にあるギターを弾いて、朝日と一緒に歌うようにもなり、もっと近づきたいけど、朝日の本当のことが、明確にわかるほどそばに居続けるのはためらう、といったあいまいな緊張感はずっと続いていく。
時子も、いまの朝日の存在が何なのか。はっきりと確かめることはできない。だけど、実際に死んだはずの人間に、何年も経って会うことができたら、その死自体が本当かどうかも含めて、日常的な緊迫感の伴う気づかいは、あれこれと増えていきそうだとは思った。
気持ちは、ずっとあいまいな場所にあるままだろう。
日常の混乱
そして、大学を卒業し、働き始めた時子は、安定して働けない朝日と一緒に、実家で住み始める。それも、朝日がいなくなったことを知っているはずの時子の両親は、あっさりと受け入れて、生活が始まっていく。
朝日は、時子の両親となじんでいって、その中で、朝日を一番必要としていた時子の方が、もしかしたら、もっと前から、実はいなくなってほしいと思っていたのかもしれない、といったことを、読者もだんだん感じてくるけれど、朝日が、時子の知り合いの関係の中に、もしかしたら時子よりも深く介入しているらしいことを感じたときに、それが、はっきりしてしまう。
過去と未来は、そんなに簡単に分けられないかもしれない。
だけど、その両方が、こんなにかたちとなって現れることは現実ではあり得ない。その負担を受け止めきれないこともあってなのか、主人公の時子は、実家に住んで、まるで家族のようになってしまった朝日に関して、出ていってもらいたいと思っていて、それに反応して、朝日が、家族の前で言葉にしてしまう。
それでも、時子は朝日とふたりの別の機会に、こんな言葉を投げつけてしまう。
さらには、それまで言えなかった「死んで」も直接、向けてしまうときまでくる。
この日常は、どうやら終わらない。いつか終わるのではないかと思いながら読んでいた読者も、そんなことを強引に納得させられるような気持ちになる。
家族の説明できない不自然さ
家族が一緒に住んでいる。
そこで、あまり問題もなく、仲良く暮らしながら、それぞれが自立して、健康的な生活を送る。
それが家族の本来の姿、のように描かれることが今でも少なくないけれど、実はとてもまれなことだというのは、生きる年数が長くなってくると、いやでもわかってくる。
それでも、どんな不自然なことがあっても、そのことについて明らかにしないことで、あえて問わないことで、平和な家庭を保ちたい。
そんな思いは誰にでもあって、それほど意識しなければ、そうした微妙な無理を重ねていることは、体の基礎代謝のように、気持ちの中の一定のエネルギーを使っていることにも似て、自然なことになっている。
だけど、そこにさらに説明しきれない要素が入ると、家族の不自然さのようなものは、あらわになりがちで、かといって、その混乱のあとに、すっきりした姿になるわけでもなくて、さらに説明し難いものが残る。
とてもわかりにくいことを描いているような作品だとも思うので、作品を紹介したり、説明したりするような作業にまで、そうしたあいまいさや混乱さが避け難く入ってしまうので、いつもよりもわかりにくい文章になってしまいました。
それでも、やはり、あまり経験したことのないような気持ちになれると思いますので、そうした新鮮さを味わいたい人は、何かがすっきりと解決するわけもないのですが、一度は手に取ってもらうことをおすすめしたいと思います。
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(他にも、いろいろな作品について書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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