時間の流れの痕跡
何十年も、家の外のトタンの壁を支えていたクギを抜いてもらった。
形も変わっているし、半分溶けたように細くもなっているし、元は銀色のはずなのにサビた茶色になっている。
それは、すでにクギとは思えないような形で、すぐに捨てられるようなものになっていたのだけど、その形や色は、明らかに時間が作ったもので、同じような状況に置かれたものは、似たものになったとしても、完全に同じようにはならない。
そう思うと、それは「時間の流れの痕跡」だと思い、さらに、ずっと、壁を支えていた時間も想像すると、同じ場所にいたはずなのに、ちょっと不思議な気持ちがした。
コーヒーの色
出かけるときに、ポットを使うようになってから、けっこう年月が過ぎた。
中にコーヒーを入れて、寒い時も、暑い時も、外出先で、かなり長い時間がたっても、温かいコーヒーを飲めることはありがたかった。
最初の頃は、コーヒーメーカーを使って、コーヒーを入れていたが、そのうちに、出かける前に、とても焦ることが多くなり、インスタントコーヒーを使うようになった。
それでも、外へ出て、コーヒーが飲めるのは、ありがたい。
仕事へ出かけ、昼食時に飲んだり、帰りには、コンビニでスイーツを買ったり、マクドナルドでチョコパイを購入してから、電車に乗り、コーヒーを飲みながら食べている時間は、ちょっとホッとした。(コロナ禍になってからは、ほぼなくなってしまった)。
そんな時が、数限りなくあって、ポットのパッキンは1年で替えなくてはいけないらしいけれど、その期間も過ぎて、だけど、使えていたから、そのまま使い続けていた。
最近になって、パッキンが少し切れた。
もう限界なのは分かっていたから、パッキンを買うことにして、サイトを見て、注文をした。
新しいパッキンが来た。
こんなに色が違っているのを、改めて知った。
その色が変わっている分だけ、確かに時間が流れていると感じた。
新しいパッキンを使った。フタを開けるときに、ポンという小さい音がした。この密閉感があったことを、忘れていた。
そのパッキンを買うときに、2セットから、という制限があって、だから、今、手元に使っていない1セットがあって、この製品は、このまま、いつまで持つのだろうか、という不安もある。ただ置いてあるだけで、古くならないだろうか。
問い合わせをしようと思ったら、そのパッキンのパッケージに書いてある電話番号は、新潟のものだったので、その電話料金を考えて、せこくて恥ずかしいことだけど、電話するのをやめてしまった。そのことは、これからも微妙に気になり続けるのだと思う。
時間というもの
命のことと、時間のことは、考えても分からないものの代表のような気がする。
昔、高級腕時計の注目度が高く、価値もあった時代に、その有名なデザイナーが、「時間は、存在しない」といったことを発言し、それは感覚的なことだったのだけど、時計のデザインをする人が、そんなことを言うのは、とてもカッコよく感じた。
それでも、時間というのは、分からない。
この前も、この本を読んだが、時々、とても興味深いことを語っているような気がしてきても、時間がからんでくると、自分の理解力のなさのせいで、途端に理解が遠くなっていくのを感じた。だから、読んだとは言えないような気がする。
それでも、こんなことを書いている間にも時間は確実に流れ、そして、ちょっとでも過去には戻れない。現在という時間が、厳密に表現するならば「点」のようなものなのかもしれないが、そんな狭い感じはしなくて、もっと幅のある流れが一緒にすぎていくような感じがするから、つい「時間の流れ」などと表現してしまうのだろう。
こんなような個人的な印象は、時間について考えてきた多くの人がいるから、とてもぬるい書き方とは分かっていても、今回、クギのことや、パッキンなど、物質の目に見える変化を見て、いろいろと考えた結果として、書きたくなってしまうのだと思う。
ただの物質の変化だけど、それには時間が必要で、この変化は、例えば、クギをサビさせるには、化学的な方法を使えば、もっと短い時間で可能だと思う。だけど、それが出来たとしても、どこかに違いがあって、その微妙な違いが「時間の流れの痕跡」なのかもしれない。
おそらくは、朽ちそうになっていたクギが美しく感じ、それで、恥ずかしながら、あまりにも情緒に流れすぎたと思うので、次は、物理学からのアプローチを読んでみようと思いました。もし、とても得るものがあったら、また紹介したいと思います。
(他にもいろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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