YouTubeで短歌を聴こう―雪舟えま『たんぽるぽる』
【この記事の要約】
歌人の雪舟えまさんがYouTubeに歌集の朗読をアップしているから一度聴いてみませんか?という話。
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こんにちは。第三滑走路の森です。
前回の木下龍也さんの記事が非常にご好評をいただけまして、うれしかったです。読んでくださった方はありがとうございました。未読の方は今からでもぜひ。
読者のみなさんのスキやいいねが励みになりますので、今後ともよろしくおねがいします。
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さて、今回紹介するのは雪舟えま(ゆきふね・―)さんの第一歌集『たんぽるぽる』です。
雪舟えまさんは1974年生まれの歌人で、小説家としても活動しています。
穂村弘さんの第三歌集『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』に登場する「まみ」のモデルであることでも知られています。
『たんぽるぽる』は2011年に刊行された雪舟さんの第一歌集です。今年9月には第6刷が発行されるなど、長いあいだ売れ続けている人気の歌集です。
ちなみに、今回は中身の歌について特に取り上げませんが、昨年には第二歌集『はーはー姫が彼女の王子たちに出逢うまで』が刊行されており、こちらも話題になりました。
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ふだんから短歌を読む層の人にどれだけ認知されているものなのかわからないんですけど、雪舟さんはYouTubeのチャンネルを開設していて、動画投稿をしています。(僕は最近知りました)
主に「グウェント」というゲームのプレイ動画をアップされているようで、素人目には何が何だかわからないんですが、動画の概要欄からゲームをとてもエンジョイされている様子が伝わってきます。
で、雪舟さんは「グウェント」以外にもいくつか動画を上げていて、今回取り上げたいのは、朗読の動画です。
Twitchで配信したものをYouTubeにアーカイブするかたちでアップされている動画のようです。
この動画では、ゲームの綺麗な画面を背景に、雪舟さんが『たんぽるぽる』の1章と2章を朗読しています。
雪舟さんの声と、歌の醸し出すファンタジーな雰囲気がうまくマッチしていて、歌集を目で読むのとはまた違った良さがあります。
以下、朗読されている歌をいくつか引いていろいろ書いてみますので、↑の動画と併せて読んでもらえたらと思います。
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とても私。きましたここへ。とてもここへ。白い帽子を胸にふせ立つ
さて一首目は、いろいろなところで引かれている有名な歌です。
前半部分のおかしな言い回しと独特な韻律がやはり気になります。
限られた抽象的な語彙の組み合わせの中で、「とても」の強調が「私」と「ここへ」にかかっています。さらに、6-7-6の韻律と毎回挟み込まれる読点が、「私」と「ここへ」に体重をかけているのがわかると思います。(口に出して読んでみましょう。あるいは、雪舟さんの朗読を聴いてみましょう。)
これらの仕掛けは、「私」「ここ」の唯一性・一回性にフォーカスするための技巧と言えるでしょう。また、それ以外の要素が極限までそぎ落とされていること自体も、その仕掛けのうちと言えそうです。
これを受ける「白い帽子を胸にふせ立つ」は、個人的にはなかなか解釈の難しい部分だと思っています。少し前にTwitterで、
こういうアンケートをとってみたんですが、読者の皆さんはどう思いますか?(投票してくださった方はありがとうございました。結果がけっこうばらけてくれて面白かったです。)
別にこのアンケート、というかこの歌の解釈に正解はないわけですけど、僕は一番不人気だった「服を着ていない」の線で読んでいました。
「私」と「ここ」の唯一性・一回性をこれ以上ない純度・抽象度で表現した前半部分に対して、後半部分では、ただの言葉だけではない、実体を備えた「私」が登場するように感じられます。そして、その実体化の鍵となるのが「白い帽子」です。「白い帽子」というアイテムをきっかけに、「私」が実体をもってあらわれ、この歌の中に具体的な「ここ」が出現するかのように感じられる、という仕掛けになっていると思います。
そうであるとすれば、この「白い帽子」以外のものは読者の目に映らない。
心から納得してくれる人もいれば、いやいやいやってなる人もいると思うんですけど、こんな風に感じ方と理屈をすり合わせていくような読み方も面白いと思います。
(余談なんですが、「私」を人でない存在、たとえば『たんぽるぽる』に挿絵としても何度も登場するうさぎだと考える読みもあるなあとアンケートのあとに思いました。「服を着ていない」に投票した方の中にはそういう読み方の人もいたのでしょうか。)
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青森のひとはりんごをみそ汁にいれると聞いてうそでもうれしい
この歌は、割とぱっと読んで意味がわかって面白いって思うタイプの歌だと思うんですが、余すところなく味わうためにいろいろ掘っていきましょう。
まず、「青森のひとはりんごをみそ汁にいれる」ということの真偽を、とりあえず確認したくなりますね。簡単にググってみると、世の中に「りんごを入れたみそ汁」といった料理自体は一応存在するみたいですが、「青森」を検索ワードに足すと「青森のみそ汁(りんご無し)」しか引っかからなくなるので、歌の内容としては正しく「うそ」なようです。
さて、なんのためにこんな野暮なファクトチェックをやったかというと、「うそでもうれしい」という表現について掘り下げるためです。
普通、「うそでもうれしい」っていう表現って、自分では想定していないような褒められ方をされたりお世辞を言われたりしたときに使うものですよね。そしてだいたいの場合、そのときに言われたうれしい言葉は、たとえお世辞であったとしても、真か偽かという基準における「うそ」とはまた違う。少なくとも、全く可能性のない「うそ」はお世辞として機能しません。
一方で、この歌においては「青森のひとはりんごをみそ汁にいれる」という、うれしい/うれしくないの土俵にのっていない言葉に「うそでもうれしい」を使っている。しかも、その内容はきちんと真偽において「うそ」なわけです。
「うそでもうれしい」という決まり文句が、短歌という詩形の中に位置づけられて全く別の顔を見せる。こういうところにこの歌の面白いところがあると思っています。
(また余談ですが、短歌を作るという視点に立つと、今のブレークダウンを逆再生して歌を作りたくなってきます。つまり、定型表現をもってきて、それがふだん使われる条件を複数洗い出し、それらの条件の逆を行ったり前提をずらしたりできる場面を構築し、一首にまとめる……のような。これを実際にやってみる上で一番難しいのはおそらく、この仕掛け以外の部分で十分に陳腐でないポエジーを用意することだと思います。「青森のひとはりんごをみそ汁にいれる」はそこをオーバーキルしてクリアしてるからすごい!)
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もう歌は出尽くし僕ら透きとおり宇宙の風に湯ざめしてゆく
この歌は、どれくらいメタで読むかで受け取り方が大きく変わる歌だと思うんですが、今回はせっかくなのでがっつりメタに読むことにします。
まずは前提なんですが、この歌に登場する「宇宙の風」はスピッツの『ロビンソン』のサンプリングとみていいでしょう。歌の中で「歌」の話をしている以上、ほかの歌からとられたような単語があればそれを汲んで読むのがいいと考えます。
誰も触れない 二人だけの国 君の手を離さぬように
大きな力で 空に浮かべたら ルララ 宇宙の風に乗る
/スピッツ『ロビンソン』
さて、スピッツは「宇宙の風に乗る」わけですが、一方で雪舟さんは「宇宙の風に湯ざめしてゆく」と歌います。それはやはり、「歌は出尽くし」たということが関係しているのでしょう。
歌にするべきことは出尽くしてしまった。ロックやポップスの事情はわからないけれど、少なくとも短歌において、歌にすべきことはなくなってしまった。そういう意識の下で、それでも歌わねばならない「僕ら」は透きとおって、つまり短歌と「わたくし」との繋がりをゆるめながら、すでに「乗る」ことで消化されている「宇宙の風」をつかって「湯ざめ」するところまで撤退し、歌の拡張を図る。
けっこうさらりと読めてしまう歌ではあるんですが、短歌における問題意識を読み込むこともできる歌だと思いました。
(またまた余談なんですけど、Twitterでこの歌について検索してたら、めちゃくちゃ素敵なのにぜんぜんいいねがついていない絵を見つけたので紹介しときます。自分の短歌にこんな絵がついたら感動しちゃう。)
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みにおぼえないほどの希望に燃えて目覚めてもあと二万回の朝?
けっこう不思議な歌です。
とりあえず 20000÷365≒54.8 ということで、「二万回の朝」というのを死ぬまでに迎える朝の数と考えて妥当そうだということがわかります。
さて、この主体は「二万」という数をどうとらえているのでしょうか。
おそらく最も素朴にとらえるとすれば、少なくて悲しい、つまり、こんなに希望に燃えているのにあと二万回しか朝を迎えられないなんて!というような意味にとれるでしょう。
ただ、ふつう二万回はかなり多い数です。親が亡くなるまでに実家に帰れる回数が残り数十回しかない、みたいな話はふつうに悲しくなってしまうわけですけど、それは数十回というのが余裕で数え上げられる数だからであって、二万回はさすがにまだまだって気分になりそうなものです。
別の方向性、たとえば、多くて嬉しい、ではどうでしょう。こんなに希望に燃えているうえに、さらに二万回も朝が来る!と考えれば十分可能な範囲かと思います。
でもそれなら「あと二万回」じゃなくて「まだ二万回」って言わない?という反論は当然出てくるでしょう。それでは間をとって第三の方向性、多くて悲しい、を試してみましょう。
みにおぼえないほどの希望に燃えていて、なんならこの瞬間風速のまま、今すぐにでも燃え尽きてしまいたい。それなのに、あと二万回も朝を迎えなければならないのか。
僕としてはこの解釈が割と腑に落ちています。そしてもっといえば、その最大瞬間風速感がとても魅力的な歌だと思っています。もちろん歌の解釈に正解はないわけですが、みなさんはどう感じるでしょうか……?
(ここまできたらここにも余談を書きたかったんですけど、ぜんぜん思いつかないので、思いついたら追記します。)
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ここまで読んでくれた方、ありがとうございました。
雪舟さんのYouTubeチャンネルには第二歌集の『はーはー姫が彼女の王子たちに出逢うまで』も同様の朗読がアップされているので、そちらもおすすめです。
あと言うまでもないことですが、実際に歌集を手にとって読んでみるとさらに楽しめますので、興味をもった方はぜひ本屋さんに行ってみてください。
普段は短歌のネットプリントをやっています。短歌の感想を書いたりもしてますので、ぜひTwitterのほうもチェックお願いします。
それでは。