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歌人・木下龍也が何をしているか

【この記事の要約】
歌人・木下龍也さんの短歌の「わかりやすさ」と「評しにくさ」、および穂村弘さんと比較した上での木下さんの「色」の話。

こんにちは。少し久しぶりの投稿です。第三滑走路の森です。
最近の短歌シーンのトピックとして、先月(2019年10月)13日に刊行された岡野大嗣(おかの・だいじ)さんの5年ぶりの第二歌集『たやすみなさい』が話題ですね。

発売直後に品薄による高額転売がでてきたり(第2刷が行きわたって解消したようです)、発売から一か月で第3刷が決定したりと、歌集としては異例の売れ方をしているようです。

岡野大嗣さんのことはこのnoteでも取り上げたいと思うんですが、それはまたこんどにするとして、今回は岡野さんと並べて語られることの多い木下龍也さんの紹介です。

ということで、木下龍也(きのした・たつや)さんについてです。

木下龍也さんは1988年生まれの歌人で、第一歌集『つむじ風、ここにあります』を2013年に、第二歌集『きみを嫌いな奴はクズだよ』を2016年に刊行しています。現在それぞれ第5刷、第4刷まで出ているようで、歌集の中ではそうとう多くの人に行き届いているものといえます。

ちなみに、第二歌集の表題連作「きみを嫌いな奴はクズだよ」は初出が「詩客」というウェブサイトなので、以下のリンクから読むことができます。(10首中5首が入れ替わっているので、歌集に載っているのと同じ連作とは言えないかもですが……)

ぼくは,10人いたら15人ぐらいにわかってほしい。それぐらいの気持ちでやって,やっと8人とか9人に伝わるんじゃないかと思っていて。

さて、短歌の話に入っていきます。
上の文は、服部真里子さんとの対談の際の木下さんの発言です。
木下さんの短歌の第一の特徴として、木下さんが自覚的にそうであるように、非常にわかりやすいものが多い。

飛び上がり自殺をきっとするだろう人に翼を与えたならば
いくつもの手に撫でられて少年はようやく父の死を理解する
/『つむじ風、ここにあります』
あの虹を無視したら撃てあの虹に立ち止まったら撃つなゴジラを
戦場を覆う大きな手はなくて君は小さな手で目を覆う
/『きみを嫌いな奴はクズだよ』

では、木下さんの歌は何が「わかりやすい」のか?
アイデアや発想という言い方がよくされると思うんですが、特に木下さんの歌が伝えようとしているものは、「視点に軸足を置いたアイデア」とよべると思います。

短歌のもとになるアイデアにもいろいろある(美しい光景、意外なものの組み合わせ、など)わけですが、翼を与えられても自殺してしまう人間、ゴジラとの共感可能性の基準としての美、といったこれらの歌のアイデアは、その良さ・面白さの基礎を、そのことを切り取る視点の特異性に置いているように見えます。

当たり前と言えば当たり前のことなんですが、特異な視点を少ない言葉数で不特定多数に過不足なく理解させることはかなり難しいことです。それを非常に高い精度でやっていることに、木下さんの歌のすごさがあります。

私見ですが、木下さんの短歌はふだん短歌を読まない人や、短歌を始めたばかりの人に特に人気なようです。Twitterでも非常に多くの(好意的な)感想が検索に引っ掛かります。

ただ逆に、普段から短歌を読み慣れている人たちからの評価は(褒めるものも貶すものも)あまり聞きません。

なぜなのか。

普段から短歌を読み慣れている人が逆張りをしているとか、わかりやすさゆえに物足りなく感じるのではないかとか、まあ邪推しようと思えばどちら方向にもいろいろ考えられるわけなんですが、僕としては感想は書きやすいが評が書きにくいのがひとつの原因としてあるのではないか、と思いました。

短歌にまつわる営みのなかに「評」というものがあります。僕の過去の記事で短歌を取り上げて何か文章を書いているものはだいたい評のつもりです。評とは何かというと、最低限の説明をするなら、「ある短歌について、文章を書く(もしくは話す)」くらいになると思うんですが、実際はある程度「建設的である」ことが(外からも内からも)求められている気がします。どういうことかというと、たとえば、ある歌を読んで「うつくしい」と感じたとします。そのときに「うつくしいと感じました。」と書くだけだと、(個人的にはそれでも別にいいと思いますが)なぜか「評」とは名乗れない気がしてくる。それはただの「感想」じゃないか?と誰かに言われるかもしれない。そこで、どこをどう受け取ってうつくしいと感じたのか、既存のうつくしさとどこが似ていてどこが新しいのか、別の言葉を選択する余地はあったか、みたいなことを考えて書き足していく。すると、だんだんと「評」だと言い張れる気がしてくる。

木下さんの短歌は、ただの感想を書きやすい。「素敵でした!」「おもしろい!」というのは、ふだん短歌に携わらない人にも自然に書けます。

ただ一方で、評を書くのはかなり難しい。なぜなら、わかってしまうから。

いま存在する多くの評が、歌の良さに到達するまでの読みの足跡、のような形をしているように思います。でも、木下さんの歌にはそれが必要ない。

歌を読んで、すぐにアイデアが伝わって、いいなと思う。たぶん他の人が読んでも、すぐにいいなと思うだろう。木下さんの歌を読んだときのこういう「いいな」を、野暮でない形で建設的に評する仕組み・やり方が、今のところ十分に整備されていないのではないか。

もちろん歌の好みというものはあって、別に興味のないものをわざわざ評する必要はないと思うんですが、「感想は書けるが評は書けない」という事態のせいであまり話題にならないということは起きてほしくないなと思っています。

さてだいぶ話が逸れましたが、ここからは、木下さんの歌について、穂村弘さんの歌と比較しながら少し書いてみます。ちなみに、評のつもりです。

ハイウェイの玉突き事故の配色が虹で巡査もほほえむ真昼
/木下龍也「旧作の夜」
「あなたがたの心はとても邪悪です」と牧師の瞳も素敵な五月
/穂村弘「シンジケート」

木下さんの歌には、随所に穂村さんへの意識が見られます。上に挙げた「巡査もほほえむ真昼」と「牧師の瞳も素敵な五月」は非常に近い読み味です。ここで、木下さんの歌の穂村さんとの大きな違いは、「配色が虹で」という部分で「主体による解釈」が明示されていることでしょうか。穂村さんの歌においては、事象がただ描写されているだけで、事象の解釈の大部分は読者に任されています。一方、木下さんの歌においては、巡査がなぜほほえむのかについてきっちりと理由が述べられています。この「ガイド」が、木下さん特有の「わかりやすさ」を形づくっているといえます。

この解釈をはさむやり方は、個人的には「少し言い過ぎでは?」と思うこともあるのですが、徹底したわかりやすさの追求によって目論見通り多くの読者の支持を得ているわけで、短歌的な成功の形のひとつであることは疑いようがないでしょう。

上の二首とそれぞれ同じ連作の中に、

オレンジの一本足を曲げられてカーブミラーは空を映した
覗き穴越しの夕暮れ穴底にいるのは僕か配達員か
/木下龍也「旧作の夜」
錆びてゆく廃車の山のミラーたちいっせいに空映せ十月
郵便配達夫(メイルマン)の髪整えるくし使いドアのレンズにふくらむ四月
/穂村弘「シンジケート」

といった歌が登場します。

要素のレベルでかなり穂村さんを意識しているのがわかる一方、態度のレベルに木下さんの色が出ています。穂村さんが「廃車の山」の外部に立ち位置をとって「空映せ」と言えば、「曲げられて」と受け身で「カーブミラー」に自らを重ねる。「くし使い」「レンズにふくらむ四月」といった語や映像をベースにポエジーを立ち上げる穂村さんに対して、覗き穴を挟んだ「僕」と「配達員」を相対化する俯瞰の視点を発想する……

こういった木下さんの歌に共通するのは、一段階「理性的」であろうとするところでしょうか。感覚や感情に訴える共感を演出するために作者の理性を巧妙に隠した短歌は多く存在しますが、木下さんはその理性を逆に共感のための道具として利用して多くの読者の支持を得ていると言えそうです。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございました。

普段は短歌のネットプリントをやっていますので、ぜひツイッターのほうもチェックお願いします。

それでは。

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