伊川津貝塚 有髯土偶 39:キーワード「十(トウ=藤)」
地図上、愛知県北名古屋市九之坪(くのつぼ)神明の神明社から直線距離で北々西ほぼ1kmに位置する場所に「智重神社」の社名が表記されていましたので、名古屋江南線(なごやこうなんせん:旧県道63号線)をたどって智重神社に向かいました。「智重神社」に関してはあとで調べてみたところ、地図上に社名が表記されている以外に現場にもネットにも何も情報が無く、社名の“読み”も不明です。「智重」は名字に使用されている名称で、その場合には「ともしげ」、「とししげ」、「ともえ」などの読み方があります。
北名古屋市西之保(にしのほう)に向かい路地を走っていると、住所の場所の北側に常夜灯と石鳥居が見えるので、そこだったかと向かうも、社号標には「十所社」とあり、目的の智重神社ではなかった。
それで、十所社前の歩道に愛車を駐めて、徒歩で智重神社の住所「西之保南出」のブロックを再度チェックしに戻ると、建物の南側に設けられたエプロンに「智重神社」と刻まれた板碑と水色の涎掛けの巻かれた石造不動明王像が並んでいるのに気付いた。
花は生花だし、カップに水も入っている。
GoogleMapのストリートビューをチェックしても、別の生花が花立に生けられている。
生花と水が絶えないようにしている人物が存在している。
もしかすると、智重神社社家の子孫だろうか。
「智重神社」板碑には「明治三十八年廿日」とある。
明治期までは社地があったようだ。
しかし、地図に社名が表記されているということは、神社庁に登録された神社であることを示しており、毎年神社庁にお布施が納められていることを示している。
「智重神社」板碑背後の建物は地図表記では公共の建物のようだが、建物にも地図にも「公民館」などの表記は無く、建物の角地はゴミ出し場となっていた。
隣の不動明王は現在の周辺に水気は無く、さっき社頭に遭遇した十所社の西隣は現在は曹洞宗寺院となっているが、十所社と習合していた真言宗寺院だった可能性もありえそうだ。
改めて「智重神社」板碑のほぼ真北、80mあまりにある十所社の社頭に向かった。
十所社の社頭には、妄想で予想した前身真言宗寺院説を証明するかのように、寺院の石門のように入り口左右に対になった「十所社」と刻まれた社号標が建てられていた。
対社号標の外側には背の高い常夜灯。
社号標の先には石造の伊勢鳥居が設置され、奥には拝殿が見えている。
対の社号標の間からは石畳の表参道が奥に延び、表参道は石鳥居の下から1段上がり、10mあまり先の拝殿に延びている。
鳥居をくぐると、鉄筋造の拝殿は戸と窓部分だけ木とガラスの使用された建造物だった。
拝殿前で参拝したが、本殿には以下のように熱田神宮の祭神から選ばれた七柱に後代に三柱が合祀され、十所としているようだ。
本殿の7神と以下の記事に紹介した笠寺七所社の7神とは日本武尊・宮酢姫命・乎止与命の3神が重なっている。
天児屋根命だけが日本武尊と関係がなく、天孫族でない神であり、なぜ十所に含まれたのか謎の組み合わせだが、江戸時代に春日社を七所神社に合祀したのが藤原氏だったと考えれば、不思議ではなくなる。
●キーワード「武」
天児屋根命は日本神話ではアマテラスの岩戸隠れの際に初めて登場する神で、中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神とされている。
しかし、藤原氏が現実に日本列島に登場するのは明らかに白村江の大敗(天智2年8月=663年10月)以降のことなのだ。
この年、中国は唐第3代皇帝高宗の時代だったが、白村江の戦いで唐軍を指揮したのは皇后の武 則天だった。
高句麗は最後の王、宝蔵王の時代であり、新羅第29代武烈王の請願を容れ百済(660年)、次いで高句麗を滅ぼした(668年)のも武 則天である。
不思議なことに百済を滅ぼす請願をした武烈王は次代文武王とともに諡号に武 則天と同じ「武」の文字を持ち、高句麗が滅びた後、日本列島ではやはり諡号に「武」の文字を持つ天皇、天武天皇(673年〜)が現れ、文武天皇、聖武天皇と続いた。
もちろん新羅文武王(ぶんぶおう)と文武天皇(もんむてんのう)は無関係ではないだろう。
神武天皇から持統天皇に至る『日本書紀』の全天皇の漢風諡号を一括撰進したのは淡海三船(おうみのみふね)とされているが、唯一文武天皇の諡号だけはすでに決定されていたとする説がある。
淡海三船が全天皇の漢風諡号を撰進した時にはすでに新羅文武王の諡号は決定されていたので、そうなったと考えられる。
そしてもう一人のキーマンが藤原鎌足だが、藤原姓には以下の説がある。
そして、福岡市には実際に「唐原(とうのはる)」という地名が入江に面して現存する。
唐原は唐駐留軍が最初に倭国本土に上陸した場所である可能性はないのか。
妄想はこの辺りにして、十所(藤所)神社拝殿前に戻る。
ガラス格子窓から拝殿内を見ると、渡殿の奥は本殿まで吹きっぱなしになっていた。
渡殿の奥には吹きっぱなしの幣殿が存在するようで、初めて見る構造になっている。
拝殿前から拝殿左手(西側)に回ってみると、社殿の銅板葺屋根が複雑に連なっていた。
幣殿脇廻廊の外側には樹木の麓に石垣を組んだ基壇が設けられ、2社の境内社が祀られていた。
表札が無いので社名は確定できないが、大正期に合祀された新羅 八幡社(誉田別尊)と山神社(大山祇神)のようだ。
廻廊を反対側の東側に回ってみると、廻廊内の本殿全景を見られる場所があった。
銅板葺流造の社殿だ。
廻廊の東側には石灯籠と瑞垣を巡らせた基壇上に祀られた市木嶋社(いちきしましゃ:市杵嶋姫命)と思われる境内社が祀られていた。
社は銅板葺素木造だが、神仏習合していた時代から祀られていた弁財天だろうか。
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ヘッダー写真は見事な樹洞(じゅどう)が十所社の社叢内の樹木にできていたので撮影したものですが、大きなものはよく神社で遭遇しますが、この大きさの美しいドーム形の樹洞は初めて目にしました。穴が少し上を向いているので、水が溜まっている可能性が大きい。となると、利用する生物は鳥やリスなどの哺乳類ではなく、水を飲みにくる昆虫類である可能性が高いのかもしれません。ヘッダー写真の目に付く中央の樹洞の右下方向にはさらに小さな樹洞が4ヶ所もできていますが、これは昆虫や穴を広げる役割をする菌類しか利用できない樹洞です。
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