伊川津貝塚 有髯土偶 64:山幸彦の妻は海人族
愛知県内の中央構造線を辿ることにしましたが、中央構造線のほとんどは分け入るのが無理な場所か私有地を通っているので、実際に見ることができるのは分け入るのが可能な場所で、中央構造線の露頭(岩石や鉱脈の一部が地表に現れている場所)に限定されるので、愛知県内で見学できる場所は10ヶ所も存在しません。ほかには私有地でも入っていける神社、来訪が歓迎される寺院(密教寺院や観光地になっている寺院)、遺跡のある場所、公共の一般道、河川になります。いずれにしても直接、線としてたどれるのは道路のみなので、大半は中央構造線と並行して延びる道路を探して入って行ってみることになります。直前の記事で触れたように、古代から日本列島にやって来た一族は丹(水銀・辰砂)、金属、宝石、石器用の石を求めて中央構造線を移動したとみられていますが、原日本人とされる縄文人もまた中央構造線に沿う地域に土器を赤く染めるための辰砂(しんしゃ:赤色硫化水銀)や刃物として使用できる黒曜石が存在することを知っていたようです。本来なら渡来した丹生族(にうぞく)のように中央構造線を西(渥美半島)から東(奥三河)に向かって辿りたかったのですが、冬を迎えているので、気温の低くなる山岳部の多い奥三河からスタートして西に向かおうと考えたのですが、となると、奥三河から豊川に向かう道路の大半は内帯に東西に延びる愛知県豊橋市と長野県飯田市を結ぶ国道151号線を利用することになります。その愛知県最東端は北設楽郡(きたしたらぐん)東栄町(とうえいちょう)なのですが、そこには須佐之男神社が祀られていました。ただし、その周辺の熊出没状況をネットで調べてみると、複数の熊出没情報があり、しかもそのうち2件は道に出て来ていたとなっており、早朝や陽が陰って以降の入山は避けるようにという警告文も出ています。須佐之男神社は151号線から山の上に向かって550mほど登っていった先に存在するので、地図上で見た限りでは参拝は回避しようと判断していたのですが、とにかく151号線にある須佐之男神社への登口までは行って様子を見てみようと思い、午前6時に名古屋市内を出発しました。
国道151号線の通っている北設楽郡は東栄町のみで、その手前(西側)はすでに新城市(しんしろし)で、北設楽郡に入ったのが午前9時直前。
新城市の市街地を抜けた後は人家もほとんど無く、自分以外の車は151号線ではまったく見かけない状況だった。
東栄町に入った時は9時前後のことで、ちょうど3時間掛かったことになる。
151号線にある須佐之男神社への登口は軽四輪1車線幅のアスファルト舗装された道で、狭い空き地とコンクリートで補修された石垣の壁に挟まれ、超急坂で立ち上がっているため、私有地への登口にしか見えなかったことから、
ほかに登口が存在しないことを確認できるまで151号線を何度か往復してしまった。
見つけた登口の向かい側には個人住宅が4軒並んでおり、周辺の151号線には道路か亀淵川(かめぶちがわ)のメンテナンス関係者が複数人出ており、空も明るく、“町”の雰囲気はまるで無いものの、人が目に付いたことで安心感があり、登口に入って行ってみることにした。
須佐之男神社への道は登口ほどではないが、急坂であることに変わりはなく、ほかの車とはすれ違えないほどの道幅の山道が続いた。
しかし、途中には2ヶ所、複数軒の住宅が集まっているポイントもあり、最後の住宅の前を抜け、道を右に折れると、社頭前の最後の60mの超急坂の下に出た。
ネット上には「軽四輪でないとUターンできない」とあったが、モーターサイクルでも我が愛車のような軽量車でないと駐車もUターンも難しいレベルの急坂だった。
一旦、社頭前まで登ったのだが、社頭を撮影するために超急坂の下に戻って愛車を駐め、徒歩で超急坂を登ることにした。
それで撮影したのが下記写真だ。
上記写真ではまるで平地にしか見えないが、超急坂であることを証明するには真横から坂道を撮影するしかないのだが、そのスペースは無い。
超急坂は鳥居前で右手にカーブしているが、そこから先はすでに須佐之男神社の境内で、拝殿脇に車で登って行くための道だ。
かつて、別所街道(国道151号線)から現在の社頭前まで石畳の表参道になっていたといいます。
上記写真鳥居の真上に伸びている最も梢の高い樹木が、この神社の最大の“売り”である綾杉(あやすぎ)であることは、境内に入って知った。
この先にもう人家は無く、須佐之男神社の裏面には山しか無いのだから熊が出ないという保証はないのだが、「熊出没」の案内板は出ていなかった。
それでも時折、パンパンと大きな柏手を打って、人間が来たことを知らせながら社頭前まで登った。
社頭には地衣類で斑にコーティングされた石鳥居と石段があり、左上にカーブしている石段で表参道が始まっていた。
鳥居の右手、表参道脇に「須佐之男神社」と刻まれた社号標。
石段登り口の赤丹色の鉄の柱は幟立てだ。
カーブした石段を上り切ると、90度近く右に折れた方に石垣を組んだ土段があり、その土段上に石段で上がると、その先にはさらに3m近い高さの石段が組まれた土段が立ち上がっており、その上には南向きに切り妻造平入の横長の拝殿が立ち上がっていた。
石垣上に上がる赤丹色の金属製の手すりを持つ石段はまだ新しい。
石垣上の両側の狛犬は愛嬌があって、「あっ!」「ん〜む」と言っている。
「あっ!」の狛犬の背後には久しく見たことのない巨大な幹周りを持つ杉が立ち上がっていた。
対になった「ん〜む」の背後の2本の杉はまだ若い。
それにしても、ここの石垣も地衣類によるコーティングで白っぱくなっており、日当たりの悪い石段左手の石垣には地衣類の上にさらに苔が生している。
参拝前にどうしても気になる杉の巨木の周囲を回ってみることにした。
杉の巨木の根元を見ると以下のような状況で、注連縄が切れるまで何度も注連縄が巻かれていたようで、幹にその痕跡が幾重にも残っていた。
上記の写真を観ていたら、昨日、個人的な傑作ドラマ『俺の話は長い』でファンになってしまった清原果耶主演の新作ドラマ『マイダイアリー』を観ていたら、相手役の早熟で孤独な数学者が「木の根は13度の角度で広がる」と言っていたのを思い出した。
この数学者は自分の精神を安定させるために、見える光景の中から13度の角度のあるものを探す作業をする。
おそらく、社殿などの地震対策で突っかい棒で補強する場合、突っかい棒は13度の角度で取り付けられているのだろう。
『俺の話は長い』の清原果耶は生意気で口の減らない女子高生なのに出待ちしていた芸能人の前ではウブな女子高生になってしまうシーンがあり、その役を本当のファンのようにリアルに演じていた。
それはともかく、目の前の巨木は脇から見上げると2本の杉が合体したものであることが判った。
それで、対になる方の杉も合体前提で2本まとめ植えになっていたのだ。
巨木の裏面に回り込むと以下の案内板が立てられていた。
綾杉(あやすぎ)の「あや」は「あやなう(寄り合わせる)」の意なのだろう。
胴廻が9m近い杉は滅多にお目にかからないので、もしかすると愛知県で最も太い杉かもしれないと思った。
ところが、『巨木ランキング__スギ編 』で調べてみたら、
愛知県内でもBEST 10には入っていなかった。
拝殿前に立つと拝殿に扉は無く、衝立で仕切られていただけだった。
衝立の向こう側は板の間になっていて、その向こう側には連子窓の戸が締め切られていた。
土足で板の間に入って参拝できると勘違いする人がいることから、衝立で締め切ったのではないかと思われた。
衝立の前で参拝したが、この神社の記録は残っていないようだ。
しかし、社名から須佐之男命が祀られているのは間違いない。
本殿を見ようと拝殿の西脇に回った。
拝殿と接するように総素木造の境内社が祀られていたが、表札が無いので、何が祀られているのかは不明。
その奥の本殿の並びに、2本の杭に注連縄の張られている場所があって、石造物が4基並んでいた。
それを観に行くと、本殿側に不動明王立像が祀られていた。
密教関係か修験関連の痕跡だ。
周辺に湧き水の出る場所でもあったのだろうか。
当初、この石像を見た時、不動明王背後の放射状に広がっている線刻が火炎の表現とは思えなかったのと、右手で持っているはずの利剣の刃先部分が見当たらないことから、青面金剛(しょうめんこんごう)だと考えたのだ。
だが、この地域を巡って他の石仏を観ているうちに、放射状の線刻がこの地域の石工特有の火炎の表現であることに気づいた。
珍しい青面金剛(しょうめんこんごう)像かと思って興奮してしまったためもあったのだが、後で撮影した写真をチェックしたら、須佐之男神社の本殿は撮影していなかった。
不動明王像の左隣は特徴の無い石祠で、祀られているものは不明。
その左隣は屋根の軒下に垂木の目立つ石祠。
扉の無い石祠で、屋内に複数の赤錆びた鉄の鳥居が収めてあるので、稲荷社である可能性が高い。
最も左側にあるのは観音開きの扉を持つ大型の石祠だった。
この石祠は屋根に唐破風(からはふ)が設けてあり、そこに丸に二引きの紋が入っていた。地域的には今川氏の家紋だが、今川氏を祀った神社は見たことがない。
神紋であれば、静岡県との県境が近いことから、賀久留神社とも思われる。
賀久留神社の総本社は不明だが、以下の神を祀っている場合が多い。
闇御津羽神と闇淤加美神はカグツチ(ここ須佐之男神社に祀られているスサノオの別神格)が、父親のイザナギに斬殺された際にカグツチの血から化生した神。
2柱セットで祀られることの多い神だが、この2柱は同神ともみられている。
2神の名にある「闇」は「山の上」を指す言葉で、闇淤加美神の「オカミ」は「龍」の古語とされている。
つまり山岳部で祀られる龍神であり、一般に雨乞いの神とされている。
気長帯比賣命とは神功皇后(じんぐうこうごう)のことで、誉田別命の母。
複数の海人族の祖とされている大綿津見神(オオワタツミ)だが、その娘、玉依比賣命は神武天皇の母であり、『先代旧事本紀』ではホオリ(山幸彦)の妻とされている。
直前の記事「伊川津貝塚 有髯土偶 63:中央構造線と丹」でも紹介したように
ホオリ(火折尊)は丹の道(中央構造線)の開拓支配者なので、早速関係者が登場したことになり、この石祠は賀久留神社とみていいだろう。
不動明王と龍神が並んでいるなら、稲荷社と推測した石祠は弁財天である可能性も出て来た。
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『先代旧事本紀』によれば、玉依比賣命の姉である豊玉姫命は火折尊(ホオリ)の子の鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)を産んだ後、子を置いて海に去ったとされています。後に豊玉姫命は玉依姫命を遣わして火折尊に歌を贈り、鸕鶿草葺不合尊を養わせました。この時、玉依姫命と火折尊との間に武位起命(タケクライオキ:アメノオシホミミの別名)が生まれました。後に玉依姫命は自らが養った鸕鶿草葺不合尊の妃となり、四子を生むことになります。
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