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今日も明日も、おなじ地図の上にある。

「あ〜、なんだか今日は、本屋に行ってウロウロしたいなぁ。」

そんな気分になるときが、たまにやってくる。たくさんの個性があらわれた本たちが色とりどりに詰めこまれた棚に囲まれて、いまの自分が「これだ!」とおもえる1冊に出会いたい。そんなトキメキを求めて、わたしは昨日、残暑の汗をにじませながら、道路の上をうだうだと歩いてショッピングモールの中にある本屋を目指した。

本屋に到着し、いざ!という意気込みとともに、ジャンルごとに分かれて配置された本棚の1つ1つを、まるで美術館の絵画を見るようにじっくりと眺めていった。ざーっと見ただけでとおりすぎる棚もあれば、背表紙の1つ1つを丁寧に追いかける棚もある。ところで、いつも思うのだけれど、どうして「女性の本」というジャンルはあるのに「男性の本」というジャンルはないのだろう。わたしは「女性の本」のコーナーで本を探すとき、なぜだかいつもすこし恥ずかしいきもちになってしまう。おなじ気持ちになる人、わたし以外にもいるのだろうか。

その日、わたしの目には「これだ!」と思える本が次々と飛び込んできた。そういえばあの人がSNSで紹介していたなぁという本、すこし前に読んで好きになった作家さんが出した新しい本、背表紙に惹かれてひっぱり出したら予想どおり好みの装丁デザインだった本、もっと深く学びたいなと思っていたテーマについて解説している本など。まるで部活動を見学しながらこれから入る部を吟味している新入生みたいに、それぞれに対する動機はさまざまだけれど、「読んでみたい」という旨の高鳴りは止まぬ一方だった。本屋に足を運ぶと、こういう「大漁!」みたいな日もあれば、「なんだか今日はまったく釣れなかった」みたいな日もある。漁師の腕の問題なのか、もしくはそもそも海の状態がよくなかったのか。その理由は、よくわからないままだった。

1冊1冊をぱらぱらとめくりながら何度も吟味し、結果的に3冊だけを選んでレジへ抱えていった。合計5,000円ほどの本への出費は、正直今のわたしにとっては安易な選択とはいえない。「食費にすれば、2、3週間くらいは生きていけるかもしれない」とか考えてしまう。しかし、「これは自己投資!」と自分のなかで念じることにした。だってわたしは、「やりたいこと」「なりたい姿」があるからこそ、この本を選んだのだ。たとえるなら、料理。つくりたい料理のイメージがあったとしても、まずはその材料を揃えなくては何も始まらない。料理をおいしくするかどうかは、わたしがどんなふうに学びを吸収するかにもよるけれど、まずはその材料となる本がなければ、前には進めないのだ。もしこれで、いつかとってもおいしい特大ハンバーグをつくれたとしたら、きっとわたしはこのときの選択に感謝することになるだろう。そんなことを考えながら、レジに並んでいた。


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重たい本をかばんに持ちながら、せっかく来たんだしとおもい、ショッピングモールのほかの階にも回ってみた。とある服屋が視界に入り、そういえばしばらく服を買っていないな、と気づいて、ふらっと立ち寄ってみた。店内にはすでに秋服もたくさん置かれていて、もうそんな季節なのかとおどろきながらも、これからの時期に着れそうなものを探してみた。しかし、どんな商品を見てみても、わたしのこころはまったく揺れ動かなかった。まったくと言っていいほど、服に対するトキメキが感じられないのだ。一時期は、ひまさえあれば通販サイトでお気に入りブランドの服をチェックしたり、お洒落な人がその日のコーディネートを投稿するアプリを見ては心をおどらせていたというのに。さっき本屋で感じていたようなトキメキは、いつのまにか嵐のように過ぎ去っており、服の1つ1つがすべて「おなじようなもの」にしか見えなかった。

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もちろん実際には、それぞれの服にお洒落なポイントがあって、身につけたときの印象だったり気分だったりは違ってくるはずなのだ。けれども、本屋に陳列されていた本たちのほうが、はるかにカラフルに見えたし、1つ1つに対して自分自身の想像力をふくらませることができた。「この作者は、たしかあの本も書いたあの人だな。その人の新作なら、きっと面白いかもしれない。しかし、今のわたしに必要なのはそっちではなくて、きっともっと別のジャンルの本のはずだ。この本を読めば、きっとこの前読んだあの内容とつながるだろうし、そこから新しい気づきが得られるはず。いま優先すべきなのはこっちの本だけど、そのあとでこっちも読んでみよう。そのときまた本屋に来るのをたのしみにしていよう。」といった具合に。

わたしは本を選ぶと同時に頭のなかで、これから自分が進んでいくための地図を描いていたのかもしれない。本を選ぶときの思考そのものが、「なりたい自分へと向かう道」にもなっていたのだ。地図が完成すれば、あとはそれどおりに道を辿ればいい。そんな確信が、結果的に「自分への投資になる」という自信へとつながっていたのだと気づいた。選び抜いた3冊のラインナップを見てみても、そこには自分の理想とする姿が如実にあらわれているな、と感じた。

もしかすると、「選べる」ということは、「その後を描けている」ということなのではないだろうかとおもった。「選びたい」とおもうのなら、まずは「その後を描く」ことをしてみるのが良いのかもしれない。昨日わたしが服を選べなかったのは、こんなご時世ということもあり、「こんな服を着てこんな街に出かけたい」「あの人と会うならこんな服を着て行きたい」といった理想を今の自分が描けていなかったからだろう。


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ところで、昨日買った本のうちの1冊に、いしわたり淳治さんの本がある。そのなかで、こんなおもしろい発見について書かれていたのが印象にのこった。「○○探し」という言葉は、「○○選び」というふうに変換してみると、途端にポジティブに感じる、というものだ。

たしかに!と、これを読んでおもわずニヤッとしてしまった。「自分探し」と聞くと、「この先ほんとうに何かが見つかるのだろうか?」とどこか不安なかんじがするけれど、「自分選び」と聞くと、おもわず袖を捲りたくなるほどのたのしみな気持ちになる。あのバイトルも、「バイト探し」ではなく「バイト選び」と表現することでそんな印象を与えていると、いしわたりさんは推察している。考えてみれば「探し放題!」といわれるより、「選び放題!」と言われたほうが俄然やる気になるもんな。

それが未来につながっていると思うから、人は「選ぶ」ことをたのしめるのかもしれない。未来を想像できるからこそ、人は自分の選んだ道に期待し、ワクワクすることができる。スポーツ選手が、たのしみながらレースに臨めるのも、自分で描いてきた道を信じる力をもっているからこそだ。そうおもうと、日頃生活で何気なくしている些細な行動の1つひとつだって、きちんと選んでいれば、それはきっと「自分を信じている」ことの表れである。何事も「自分で選んだことなので」といえるというのは、その人の「つよさ」である。しっかりと地図をもっている証拠である。

そんなことを考えながら、わたしは昨日選んだ本のなかで学んだことをさっそく活かしながら、パチパチとキーを叩いている。実はこの頃まったくと言っていいほど文章を書けていなかったのだけれど、わたしは「文章を書きつづける」ことをあきらめたくないとおもっている。そう信じて選んだ本は、未来に向かって進んでいくための道をつくってくれるはずだ。描けている未来にすこしでも自信をもって、ポジティブなきもちで「今」を選んでいきたい。現にわたしは、今日こうしてまたnoteを書き始めている。昨日選んだことが、まさに「今」につながっていると実感している。

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「日常は1つの地図によってできている」。

そう思うと、たとえ1つ1つの小さなことであっても、「選ぶこと」がなんだかたのしく思えてくる。目の前にある選択肢にワクワクできる。おもえば、遠足にもっていくためのお菓子を買うべく、前日に小銭をもってスーパーへ行っていたときから、わたしはすでに「選ぶことのたのしみ」というのをよく知っていた。今日を選ぶことは、明日を選ぶことなのだ。

さて、今日はなにを選ぼうかな。


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