短編小説:夢語り
青春を箏にささげる、と決めたはずなのに、今のところ全然ささげられていない。
高校入学と同時に箏曲部に入部してもうすぐ一年。入学してすぐの部活紹介で筝曲部の演奏に惚れ込み、即座に入部した私だったが、気持ちと技術は比例してくれない。来月には二年生になり後輩もできるというのに、まるで上達していなかった。焦っている。
「そんなに練習したいなら、おばあちゃん家に箏あるけど」
ある日の食卓、母が言った。
「え、そうなの?もっと早く教えてよ」
「知ってると思ってたから。光絵ちゃんが箏をやってたでしょう」
光絵ちゃん、というのは、数年前に亡くなった母の姉だ。そういえば、うっすら光絵おばちゃんの箏の演奏会を聴きに行った記憶がある。
「光絵ちゃんが死んでから片付けたままになってたけど、まだ使えるんじゃない?」
「私も弾いて良いかな」
「良いでしょ。おばあちゃんも喜ぶと思うわ。雫が高校で箏を始めたときも喜んでたもの」
だったらなおさら、もっと早く箏があることを教えてくれたらよかったのに。でも、そんなことを言っても母は「あら?言わなかったかしら」ととぼけるだけだろう。
数日後、私は祖母の家に訪れた。
「雫ちゃん、いらっしゃい」
私が箏を弾きたいと言うことは、すでに母が伝えておいてくれたらしい。
「いつでも弾きに来て良かったのに。雫ちゃんが光絵ちゃんの箏を弾いてくれるの、楽しみにしてたのよ」
だったらもっと早く…、と言っても仕方ないので、とりあえず練習にとりかかることにした。
光絵おばちゃんの部屋だった和室に入ると、祖母がすでに箏をケースから出しておいてくれていた。古いけれど、状態は良さそうだ。丁寧に箏柱(位置によって音の高さを調整する道具)を立てて、音を合わせていく。十三本の絃をすべて合わせたところで改めて鳴らしてみると、なかなか綺麗な音だった。
直近の演奏は、来月にある新入生への部活紹介だ。曲は90年代の歌謡曲。題名に「春」が入っているものの実は冬の歌のため、季節外れな気もするが、毎年演奏するのが伝統らしい。去年この曲を聴いて入部を決意した私は、何がなんでもみんなの足を引っ張りたくない思いでいっぱいだった。
深呼吸して、イントロから演奏を始める。私のパートは主旋律が多いのが救いだ。曲をイメージしやすい。
何度めかの演奏の途中、私はふと手を止めた。
うっすら、誰かが私の箏に合わせて歌っているような気がしたのだ。誰か、といっても、この家には今私と祖母しかいない。近くで祖母が聞き耳をたてているのか。いや。祖母は居間でテレビを見ているはず。空耳か。
演奏を再開すると、やはりしばらくして誰かが歌っているような気がしてくる。不思議と気味の悪さは感じないが、集中できない。
一度休憩しよう。爪を外して足を伸ばすと、部屋の隅に積み上げられた紙の束が目についた。近付いてみると、それはすべて筝曲の楽譜である。きっと光絵おばちゃんのものだろう。
知っている曲はないかぱらぱらめくって見ていると、ある楽譜に視線が吸い寄せられた。聞いたことがあるような題名。箏独奏と、箏パート、十七絃(十七本の絃をもつ箏。低音。一般的な箏は十三絃)がそれぞれ二パート、計五パートから成る曲だ。
突然、この曲を弾く光絵おばちゃんの姿が脳裏によぎった。
そういえば光絵おばちゃんは独奏パートを演奏していた気がする。
弾いてみたい。
そんな思いが、沸き上がってくる。
もちろん簡単な曲ではないし、弾けないのもわかっている。でも、少し、少しだけ、触ってみるくらいならばちは当たらないだろう。
箏柱を動かして独奏のパートに音を合わせていく。
たくさん聴いたことがあるわけでもないのに、脳内ではなぜか鮮明にその曲が流れていた。
独奏のパートは、いきなり私の苦手なすくい爪(箏の奏法。爪の裏側を使い手前に向かってすくうように弾く)が連発されている。もちろん、イメージ通りには弾けない。
最初は見よう見まねで、おそるおそる弾いていたのだが、少しずつ指が動いてきた。頭の片隅では「この曲をやっている場合ではない」と冷静なものの楽しくてやめられない。
頭の中では、曲が流れている。
頭の中では、他のパートの音が聴こえる。
そして私は、それに合わせて弾いている。
無我夢中になって弾いている。
指が動く。
音が聴こえる。
気が付けば、私はひとりで合奏をしていた。
不思議だった。
弾けるはずもない、今日初めて見た楽譜。それなのに、私の指は正確に動いて正しい音色を奏でている。
やったことのない奏法もたくさん出てくるのに、できる。
何かに突き動かされるように…、何かに乗っ取られたかのように、私は演奏している。
十分間弱のその曲を、私は弾き切っていた。
「雫ちゃん、雫ちゃん」
祖母の呼ぶ声がして、はっと我に返った。
「雫ちゃん、起きた?」
心配そうな顔で祖母は私を見下ろしている。
「えっ?」
私はあわてて身体を起こした。
…身体を起こした?
いつの間にか私は、箏の隣で横になっていた。寝ていたのだろうか。さっきのは、夢?
「練習頑張るのは良いけど、ここで寝たら風邪ひくよ」
「…うん」
まだ頭がぼんやりしている。
さっきまでのは何だったのだろうか。
「あ、懐かしい」
祖母は、譜面台に目を向けて言った。そこには、あの曲の楽譜が置かれていた。箏を見ると、調絃もその曲に合わせている。では、どこまで現実だったのだろうか。
「これ、光絵ちゃんが弾いてたねえ」
「やっぱり?」
「一生懸命練習してたんだけどね、発表の前に病気になっちゃったから」
そっと祖母は楽譜を手に取った。懐かしそうな、寂しそうな顔をしている。
「そうだったんだ」
「雫ちゃんもいつか弾いてみてね」
さっき弾いたんだけど…、という言葉を、あわてて飲み込んだ。
「いつか、ね」
「きっと雫ちゃんも上手にできるわ」
「そうかなあ」
「そうよ」
祖母は楽譜を戻しながら、私の隣に座った。
「光絵ちゃんもね、雫ちゃんと同じで、高校生から箏を始めたの。でも上手くできないって悩んでてね」
「光絵おばちゃんが?」
「ええ。あれができない、これが弾けない、って、よくわめいてたわ」
くすくすと祖母は懐かしそうに笑った。
「たまたま知り合いの人が箏を安く譲ってくれて、それはそれは、一生懸命練習してたわ」
「知らなかった」
「だから、雫ちゃんも大丈夫。ちょっとずつ続けたら、上手くなるよ」
「…だと良いけど」
よいしょ、と祖母は立ち上がった。
「練習の邪魔して悪かったね。でも、休憩も大事よ。お茶の準備ができてるから」
「ありがとう」
じゃあ、居間にいるから、と祖母は部屋を出ていった。
私はもう一度、箏と楽譜に向いた。
そっと、爪を最初の音に合わせる。さっきの感覚を思い出そうとして…。
弾けない。
弾けなかった。それだけじゃない。あんなに鮮明に流れていたはずの曲を、もう忘れてしまった。
聴こえない。
弾けない。
やはり、あれは夢だったのだろう。
まあ良いや、と立ち上がる。
夢だったとしても…。
あの感覚。それは鮮明だ。素敵な感覚だった。楽しかった。あれだけ綺麗に奏でることができれば良いのに。
いつか私も、自力であの感覚を味わえるようになるのか。
続けていけば、できるようになるのか。
「きっと、できるよ」
聞こえた気がして、あたりを見渡すが誰もいない。これも夢か。
そういえば、歌っていたあの声に似ている。
そして…。思い出した。
たぶん、光絵おばちゃんの声だ。
「頑張ってみるよ」
光絵おばちゃんの優しい笑顔を思い出しながら、私はつぶやいた。
BGM 絵空箏/沢井比河流
※フィクションです。
『絵空箏』は大学生の時に演奏した思い出の曲。
独奏のパートを弾いていた先輩が本当にかっこよかったです。
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