やっぱりわたしは、非人間
わたしって、やっぱり人間じゃなかったのかもしれない。
炊事、洗濯、掃除。
全てできて、一人前というか人間として認められるのだろう。
けれど、わたしはどれも嫌いだ。
炊事(料理)は、生きる為に必要だからやっているだけ。
美味しいわけでもなく、ただ適当に作って食べるだけ。
最近は、特に美味しいと感じることがなくなってきた。
それは、精神的負荷が強いことばかり降り注いでいることとこころが傷だらけだから。
洗濯だって、1回着て捨てるのなんて勿体無いからやっているだけ。
お金の無駄にもなるし、洗えば着られることを知っているから。
それに、大事に着たいと思えば洗濯して綺麗な状態にしようと感じるから嫌でもやる。
掃除は、どうしても難しいらしい。
わたしは誰からも必要とされず愛されることさえ許されない立場。
だから、せめてモノに囲まれていないと落ち着かない。
そして、捨てるということに抵抗感が強いのかもしれない。
何度も手伝ってもらいながら、モノを捨てられることはできた。
スペースのある状態が、快適だということも知っている。
けれど、今のわたしには取捨選択をする時間と体力、気力さえない。
仕事をこなすことで心身いっぱいいっぱいで、かつまた環境や業務に慣れなければならない状態でそんなことまで気を回せるわけもない。
こういうところも、きっと母に似たのだろう。
あの人は、父から愛されたかった。
なのに、ほぼワンオペでわたしを育て、父から罵声を浴びせられたり蔑ろにされて傷付いていた。
母が太らせられたのは、遺伝もあるけれど父方の祖母のある意味虐待…いじめが原因なのに。
母が掃除をしなくなったのは、父が祖母から母を守らず祖母の言いなりになっていたから。
そして、家庭のことを全く省みないから買い物をしてストレス発散するしかなかった。
だから、モノに囲まれて安心感を得たかった。
母も、わたしも、たったひとりに愛されれば充分だったんだ。
ただ、それだけ。
けれど、炊事、洗濯、掃除のどれか1つでもできていないと人間ではない。
元々、わたしは人間じゃなかった。
あの連中に、とどめを刺されただけなんだ。
人間として当たり前の感情を持っていたって、生きていく上でできないといけないことができないと人間ではないんだ。
だから、愛されたいなんて思うこと自体が烏滸がましいのだ。
元々非人間だったのに、精神疾患で障害者になったわたしは、やっぱり非人間で汚いモノ。