「知らない」
知りたくない、知ろうともしない姿勢。
「知らない」
とはっきり言うことは、勇気がいることのような気がする。
自分の無知を素直に認めることで、「知らない」と使うこと。
そう言うことで、知ろうとすることになり、新たな気付きと学びを得られることになるかもしれない。
けれど、自分の無知を認めた上で知りたくないという拒否の姿勢で「知らない」と言われたら?
いくら相手に敬意があったとしても、自分を知ろうとしないんだと傷付き絶望する。
ヘラヘラしながら拒絶されて、傷付かない人がいたら逆に教えて欲しい。
わたしは、そんな人に振り回されて、こころに大きな傷ができた。
その傷は深まり、こころが粉々になって、死んだ。
どうして、こんなふうに傷つかないとならないんだろう?
翻弄して、傷付けて、わたしのこころが崩壊して死んでいくさまを見て楽しかったんだろうね。
わたしは、玩具じゃない。
健常者から見たら、頭のおかしい気持ち悪い婆で非人間であっても、それなりに思うことがあるんだよ。
そんな、わたしのことなんて知ろうとしない・知りたくもないと拒絶した人。
そんな人に、何故わたしはまた自分の状況を説明しないとならないのだろう?
何故、またわたしはこれ以上惨めな思いをしないとならないのだろう?
もう関わることが殆どないことが確定しているのであれば、しなくていいことではないのか?
そんなことが頭の中を駆けめぐっている。
わたしの精神状態の悪化の原因のひとりではあるけれど、話したことで何も変わらないことは分かっている。
なのに、何故?
ああ、そうか。
わたしが確実に死ぬ為に、準備してくれたものなのかな。
わたしが惨めな思いをして、余計にこころを殺すことで、自分でとどめを刺す道を与えてくれているのか。笑
なーんだ!笑
じゃあ、死ぬ為の引導を渡してくれたお礼を言わなきゃいけないのか。
あんな人にお礼なんて言いたくないや!笑
全て、わたしがいけなかった。
「この人は、信じられそうだ…。」
そう思って、でもわたしを一切知ろうともせず振り回したことで、本来の自分を話してみた。
それだけで、拒絶され気持ち悪がられるのなら、振り回して欲しくなかったよ。
「知らない」と言うこと。
話す内容によっては、学びにもなるし、拒絶の姿勢にもなる。
軽々しく近付いて、こころを掻き乱し、拒絶の「知らない」。
知りたくない・知ろうともしないのなら、ほんの少しだけ知っただけで全てを知ったように振る舞わないで。
時には、知る努力だって必要なんだよ。