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雪の中を歩くカラス

学校に通っていたころって、定期的に読書感想文を書かされました。
私は本を読むのも文章を書くのも好きだったのであまり苦ではなかったのですが、苦手な人はさぞかしつらかっただろうと思います。
しかも小学生のころは、それを人前で読まされるなんてことがよくあって。

もう何十年も前のことなのに覚えている、感想文にまつわる思い出があります。
小学校の中学年のころだったか、国語の教科書に載っていた物語の感想文を発表するという授業がありました。
ある男子生徒が「カラスがえらいなあと思いました」という感想文を発表したとき、クラス中に、今でいうプークスクスという空気が流れました。
雪の中を歩き続けるカラスの存在はストーリーには全く関係ない、物語冒頭のただの情景描写でしたから、そのカラスを褒め称えるのって感想文としてはあまりにも違和感があったのです。
先生のフォローもなく、そのまま他の生徒の発表が続きました。
でも、今でも私の記憶にはその出来事が残っています。

そして高校生のころの別の話。
やはり国語の授業でのこと。
それは感想ではなくて、ある詩を読み解く授業でした。
生まれて数日で死ぬ虫、カゲロウを題材に生と死とを表現した詩。
食べ物を摂ることもできないのに卵だけは持っているカゲロウの姿に、「生の神秘」を読み取るべく、先生は授業を進めました。
それが解釈としては正解で、指導としてもそこがポイントだったはずです。

にもかかわらず私はどうしてもその解釈ができませんでした。
当時わが家は母子家庭で、母はひとりで必死に私を育ててくれていました。
なのでカゲロウを「命懸けで子を守る健気な母親の姿」として捉えてしまったのでした。
そしてそうまでしてもらった大切な「生」なので人は一生懸命生きなくてはならないと。
マクロな「命」とミクロな「命」。
当時の私はその解釈の違いがどうしても飲み込めず、先生の首を何度も傾げさせることになりました。
もちろん定期テストでの、私なりの解釈を書いた解答はバツでした。

現在母はすでに亡くなり私自身も母になり、いろいろな経験をしてようやく詩の本来の解釈ができるようになりました。
「生きること」「生まれること」「産むこと」「死ぬこと」を、単に詩の解釈としてだけでなく、実際に生き物の摂理として味わい、憂い、考え、感じることができるようになりました。
長い長い時間がかかりましたが。

それでも思うのです。
世の中に溢れているありとあらゆる創造物、ジャンルを問わず、事実であってもフィクションであっても、そこから何を読み取るかは本来その人の自由じゃないかって。
もちろん正しい解釈、主流の解釈は、国語の授業では大切だし、正しい解釈をすれば作品を大いに楽しめることは間違いない。
でも違う解釈がその人を楽しませたり救ってくれたりすることもまた、あると思うのです。
私にとってはその当時、ともすれば反抗したくなる年頃においてあの詩に出会ったことは、母に対する感謝を再認識する機会だったのかもしれません。
負け惜しみっぽいですが。

さて再びカラスの話。
私の記憶になぜ残っているのか。
それは、その子が発表したのを聞いた瞬間に「雪の中を歩くカラス」の映像がくっきりとインプットされたからなのです。
あくまでも私が想像したカラスですが。
彼はカラスに何かを投影したのか、もしくは何かを読み取ったのか。
もしかしたら物語を全部読んでなくて、苦し紛れにカラスに焦点を当てただけなのかも。
でもカラスの映像は、なぜか定期的に私の脳内で再生されます。
時を超えていまだに私にちょっとした影響を与えていること、彼は知らないんだろうな。


#読書感想文

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