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【古文】『源氏物語』『紫式部日記』/辞書引きながら

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英文学を読むなら英語で、ロシア文学を読むならロシア語で、『源氏物語』を読むなら古文で。外国語ならば、翻訳者に委ねるのも仕方なしとしても、せめて日本の古語なら、現代の作家が自己の世…
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【和歌】紫式部/『紫式部日記』登場の歌人(4/4)

紫式部  生年は天録元年(970年)から天元元年(978年)まで幾つかあり、没年も長和3年(1014年)から長元4年(1031年)まで幾つか。40年から60年の生涯と推測される  父は漢学者の藤原為時、母は「藤原為信女」(藤荒為信の娘)、弟に藤原惟規、早くに母、姉を亡くし、夫の藤原宣孝とも娘賢子を儲けた後二年して夫と死別  『紫式部集』  成立年時未詳(西暦1019年頃か)  伝本により一部の歌(数首)が異なるが、120首  人生前半は人生に肯定感が強く明るい作品が多く、後

【和歌】清少納言/『紫式部日記』登場の歌人(3/4)

清少納言(康保3年〈966年〉頃~- 万寿2年〈1025年〉頃)  父は清原元輔、『万葉集』の読解と『後撰和歌集』の選者を務めた歌人、曽祖父(または祖父)は『古今和歌集』の代表的歌人である清原深養父、夫は藤原斉信の家司橘則光、子は橘則長、後に摂津守藤原棟世と再婚、娘は小馬命婦  正暦4年(993年)冬頃から長保2年(1000年)まで一条帝の中宮藤原定子に仕え、中宮定子の死後(長保3年(1001年)頃)『枕草子』を書き上げる。 『清少納言集』  日常生活を描写した即興的な歌が

【和歌】赤染衛門/『紫式部日記』登場の歌人(2/4)

赤染衛門(天暦10年(956年)頃~- 長久2年(1041年)以後)  大隅守赤染時用の娘とされる。夫は文章博士大江匡衡、子は、少なくも2子女(大江挙周と江侍従)、源雅信邸に出仕、藤原道長の北の方源倫子、その娘の藤原彰子に仕えて、「匡衡衛門」<紫式部日記>とも呼ばれていたようで、紫式部、和泉式部、清少納言、伊勢大輔と親交あり、良妻賢母と伝えられる。 <『日本古典文学大辞典』(岩波書店)> 『赤染衛門集』  成立年時未詳(西暦1041年以後、1044~1053年の間)  『古

【和歌】和泉式部/『紫式部日記』登場の歌人(1/4)

和泉式部(天元元年(978年)頃 ~ 没年不詳)  越前守大江雅致と越中守平保衡の娘との子、姉妹複数<近藤みゆき『王朝和歌研究の方法』(笠間書院)> 夫は和泉守橘道貞、娘は小式部内侍  冷泉帝の皇子為尊親王と親交があり、その死後、弟の敦道親王と親交(二人の間に子石蔵宮永覚)、その後夫との関係は不明、寛弘の末(1008年 -~1011年頃)、一条帝の中宮藤原彰子に出仕、藤原道長の家司藤原保昌と再婚、万寿2年(1025年)に娘小式部内侍が病死した際の和歌、万寿4年(1027年)に

【古文】他人(ひと)を評するは己(おのれ)を評す/『紫式部日記』を読んで

 『紫式部日記』には和泉式部、赤染衛門、清少納言の三人について歌人として評価している箇所(二節)がございますね。  あの人のあそこが良いの悪いのと「他人(ひと)を評することは、その実、己を評すること」なのでございます。平安時代にこのような考え方があったのか否かは定かではございませぬけれども、さて、思慮深き紫式部女史はどうであったのでございましょうか。  他人(ひと)に対して、かなり高飛車な言い様でございますけれども、最後に自身のことに触れてございます。やはり、他人(ひと)こ

【古文】古文だからこそ分かること/『紫式部日記』を読んで

 これは、『紫式部日記』が如何なる本なのかという全体像を紹介するものでございます。  『源氏物語』は、光源氏を中心にした物語が展開いたしますけれども、光源氏が死んだ後も子や孫たちの物語として続いて参ります。光源氏の何か意志を継ぐとかの生き方が語られるのかと申しますと、そうでもございませぬ。人として同じ情欲に囚われ、同じ葛藤を懲りることなく繰り返していくのでございます。人物が誰であるかの性格は勿論重要ですけれども、物語の後半になるに従い、個人の物語よりも「時の流れ」の中で「人

『源氏物語』(古文)を読んだときの覚え書き_登場人物

◇物語の時代は◇ 先帝* → 桐壺帝 → 朱雀帝 → 冷泉帝 → 今上帝*   *(時代を示す呼び名は記されない) ◇主なる登場人物(五十音順)◇ 明石の君(あかしのきみ)   明石の入道の一人娘、光源氏との間に明石の姫君(後の今上帝の后、明石の中宮)を産む。後に明石の上として六条院冬の町に住む。 明石の入道(あかしのにふだう)   父は、桐壺の更衣の父按察使の大納言と兄弟、近衛中将(三位中将)の官職を捨て地方官(播磨守)として財を築き、出家、娘の良縁を住吉明神に祈願

『源氏物語』(古文)を読んだときの覚え書き_登場人物系図

『源氏物語』(古文)を読んだときの覚え書き_第54帖『夢浮橋(ゆめのうきはし)』

第54帖『夢浮橋(ゆめのうきはし)』 巻名は、古歌「世の中は 夢の渡りの 浮橋か うちわたりつつ ものをこそ思へ」(作者不詳)  (世の中は夢の中で渡る浮橋のようなものであろうか 橋を渡って逢瀬を重ねながらも 悩みが絶えないものだなあ) に基づくとされる。(藤原定家の源氏物語注釈『奥入』)  ※「夢」という語がこの巻に五回使われる。  ※第19帖『薄雲』(本文)にも「夢の渡りの 浮橋か」との引用あり。   ◆薫28歳◆ <物語の流れ>    薫の大将 →横川の僧都を訪ね、浮舟

『源氏物語』(古文)を読んだときの覚え書き_第53帖『手習(てならひ)』

第53帖『手習(てならひ)』 巻名は、浮舟が一命を取り留めたとはいえ、思いに耽る描写に「手習」とあることに拠る  ※「手習」とは、古歌や自作の歌に思いを託して手すさび(手先で何気なく、気晴らしでする遊び)で書き付けること。この巻に五回使われる。   ◆薫27歳~28歳夏◆(年立(としだち)では『蜻蛉』の巻に重なり、翌年夏まで) <物語の流れ>    浮舟 →高僧と母妹の尼の一行が初瀬(はつせ)詣で帰りに寄った「宇治の院(うぢのゐん)といひし所」で、死にかけた状態で発見される

『源氏物語』(古文)を読んだときの覚え書き_第52帖『蜻蛉(かげろふ)』

第52帖『蜻蛉(かげろふ)』 巻名は巻末の歌から 「『これこそは、限りなき人のかしづき生ほしたてたまへる姫君。また、かばかりぞ多くはあるべき。あやしかりけることは、さる聖の御あたりに、山のふところより出で来たる人びとの、かたほなるはなかりけるこそ。この、はかなしや、軽々しや、など思ひなす人も、かやうのうち見るけしきは、いみじうこそをかしかりしか』 と、何事につけても、ただかの一つゆかりをぞ思ひ出でたまひける。」  (「この人(宮の君)こそは、高貴なお方が大切に慈しんだ姫君なの

『源氏物語』(古文)を読んだときの覚え書き_第51帖『浮舟(うきふね)』

第51帖『浮舟(うきふね)』 巻名は、匂の宮が浮舟を連れ出し宇治川を渡る小舟の上で交わした主人公の名の出所ともなった歌から 《和歌》「年経とも 変はらむものか 橘の 小島の崎に 契る心は」(匂の宮)  (年がたっても変わったりはしない、変わらぬ緑の橘の小島で約束する私の気持ちは)   《和歌》「橘の 小島の色は かはらじを このうき舟ぞ ゆくへ知られぬ」(浮舟)  (お約束してくださる心は変わらないでしょうけれど、この浮舟のような私はどこへ行きますことやら。)  ※浮舟(水に

『源氏物語』(古文)を読んだときの覚え書き_第50帖『東屋(あづまや)』

第50帖『東屋(あづまや)』 巻名は、薫の大将が常陸夫人の娘(浮舟)の隠れ家に訪れたときの歌に拠る 《和歌》「さしとむる むぐらやしげき 東屋の あまりほどふる 雨そそきかな」(薫の大将)  (戸口を閉ざしている葎(むぐら)が繁ってでもいるのか、あまりに長い間待たされて軒の雨だれに濡れることだ)  ※「葎(むぐら)」とは、雑草のこと   ◆薫26歳秋◆ <物語の流れ>     常陸夫人(浮舟の母)・・・八の宮の北の方の姪、中将の君 →八の宮の女房の頃、八の宮子(浮舟)を産む

『源氏物語』(古文)を読んだときの覚え書き_第49帖『宿木(やどりぎ)』

第49帖『宿木(やどりぎ)』 薫の中将、大君の周忌法要で宇治を訪問、巻名はその時の歌の遣り取りから。 《和歌》「やどりきと 思ひ出でずは 木のもとの 旅寝もいかに さびしからまし」(薫の大将)  (前にここに泊ったことがあると思い出さなかったなら、この深山木(みやまぎ)のもとの旅寝もどんなに寂しかったであろう)  ※宿木・・・ここでは蔦のこと。「宿りき」に掛ける。   《和歌》「荒れ果つる 朽木のもとを やどりきと 思ひおきける ほどのかなしさ」(弁の尼)  (荒れ果てた朽木