作家が宣伝をする(しなければならない)ことについて
SNSでたびたび話題になる「作家が宣伝をする(しなければならない)ことについて」。
先日の文学フリマを終え、この数年の所感がようやくまとまったので、以下に記します。
デビューの浮かれ熱、冷める
デビューしてしばらく経った頃、私はとあることに気が付きました。ある意味では、沈黙に教えられたというか。
「そうか、本は存在を知ってもらってこそ売れるんだ。じゃあ誰が宣伝してくれるの? ……え? 私?」
自分は群雄割拠する大海に泳ぎ出た稚魚であり、後ろ盾もない。版元は作家のマネジメントをするところではないのだ。ここに気づいた瞬間、デビューの浮かれ熱は冷めました。
私は小説を生業にしたいのです。ならば自分でなんとかするしかないのだと思いました。
がんばりはじめ
そこからはSNSマーケティングのウェビナーを受けたり、売るための本を読んだりしました。
SNSは情報の暴風域です。ずっと脳が誰かと喋っているような状態になりました。
私は子育てもしているし、サラリーマンもしています。宣伝(SNS)に時間を使えば、作品のための時間は、インプットするにもアウトプットするにも薄くなりました。
娘の幼稚園からの「おたより」
話は変わって、娘の幼稚園からのおたよりに、こんなことが書いてありました。一部抜粋します。
「写真よりも動画よりも、情報量が多いのは『自然』です。(中略)これを五感に取り込んで、自分なりに解釈して出力すること、つまり絵や踊りや詩に変換することを『アート』と呼びます。英英辞典を引いてみても『nature』の反対語は『art』です」
「自然」に限らずとも、自分の身の回りの世界を受け止め、出力すること。
小説、絵、歌、ハンドクラフト、料理、グラフィックデザイン…様々な仕事に「art」はあると思います。というか「art」のない仕事はあるんだろうか。オフィスの共有フォルダの整理にだって、その人の美意識が出るというのに。
おたよりを読んで、衝撃を受けました。私が感じていたのはこれだった、とわかったからです。
子どもの頃から私のいちばんそばにいた「art」の息づかいが、遠くなったのは、気のせいではなかったのだと。
私のような者が
私はSNSという暴風雨に乗って飛んでくる枝や看板や鉄くずの下に「art」を埋もれさせている。
「art」に栄養ときれいな空気を送る時間も、SNSにささげている。
作家の価値は「art」を表現することにこそあるというのに。
私のような年次も実績も浅い者が「作家」という主語を使ってこの問題を語っていいのか。
そう思っていたのもあり、いままではじっと考えるにとどめていました。
文学フリマを終え、「実感」が「私のような者が」という「抵抗」を上回ったので、いまこれを書いている次第です。
文学フリマに出店して
今年、初めて文学フリマに参加しました。5月と12月の出店を経て感じたことは、読者の方、フォロワーの方と会えるのはこんなにうれしいことなのか! ということです。
一方、「物を売る」というのは非常に多様な要素が絡んでいることを体感しました。
ひとりでどうにかできるものではありません。ツキノワグマにティースプーンで立ち向かっているようなものです。
だからマーケティングのプロがいるし、学問にもなっているのでしょう。
自分への問い
ここまで来て、私は基本的な問いに立ち返りました。
「小説家としていちばん大事なことは何だろう?」
答えはすぐに出ました。
「いい作品をつくること」
でもこの数年で「art」の声はずいぶん小さくなりました。
だとしたら私は、小説家として生き残るために小説家として一番大事なものを見失いつつあるということです。
大海を自力のみで泳いでいたなどとは、とても言えません。
多くの方のご助力と支えがありました。フォロワーの方々との交流、寄せていただいた感想がどれだけ励みになったのかわかりません。暴風雨から守ってくれたのもまたSNSでした。
自分一人でがんばってきたなどとは絶対に言いません。ですが、泳ぐために泳ぎ方を手放しかけているみたいなところがあります。
私たちの共有財産
作家も宣伝をするのが当たり前のようになっています。
SNSが重要であることは変わらないし、私はこの先もSNSやイベントをはじめ露出をやめるつもりはありません。でもいまのままではいずれ、「art」の声は聞こえなくなるでしょう。
SNSでのコミュニケーションとマーケティングに長け、かつ自分の作品軸をぶれさせないような猛者か、小説の神の申し子しか生き残れないとなると、私たちの共有財産とも呼べる「art」の海はどんどん貧困になっていくと思います。
ちょっと休もう
じゃあどうしたらいいか。
わかりません。
いまは休もうと思います。
というと休筆宣言みたいですが、24時間365日宣伝のことを考えていた脳に有給休暇を取ってもらうようなものです。
ガラクタの山に埋もれた私の「art」、自分の勘のレーダーではまだ、かろうじて生体反応をとらえています。
自分の中に積み上がった瓦礫をどかしつつ、小さな真珠のような「art」を迎えにいこうと思います。