ばあちゃん、ありがとう。
嫌われる勇気 No43 普通であること
今日は、ちょっとエッセイ風に。
昨日の記事の◯◯に普通を入れて読んでみて下さい。
哲人は普通であることを受け入れられない青年を諭すように言います、「普通であることを無能であることと同義でとらえているのでしょう。普通であることとは、無能なのではありません」と。
連想…、大切な言葉を思い出しました。
私には大好きな、ばあちゃんがいました。
大正生まれのばあちゃんは、当時にしては珍しく、自ら離婚を選び、じいちゃんの元にやってきた人でした。それは、「不幸」な出来事だったと振り返っていました。
厳しいお父さんに育てられ、小学校は休ませてもらえず、熱があっても、お父さんにおぶわれて出席したそうです。
戦前、戦後を生き、夏は蚕を飼い、冬は寒天の出荷、あとは農業に勤しみました。重い桑の葉を運ぶ過程で膝を壊し、いつもさすっていました。
90歳を過ぎ、生き抜いて、一度も病院に行かず、実家で家族に見守られながら死にました。
強く謙虚な人でした。
ばあちゃんの口癖は、「中庸をいけ。背中をシャンとして歩け」でした。
中庸とは、諸説あるようですが、
中:中間、平均値、足して2で割るというものではない。常に、その時々の物事を判断する上でどちらにも偏らずにいること。
庸:「用」であるという説がある。つまり、中の道を「用いる」という意味。
中の道を生くこと、それは、自分を持ち、普通に生きること。でも、へこたれそうになる、他者におもねたくなる…。
たがら、背中をシャンとして歩く。
普通の意味と覚悟、ありがとう、ばあちゃん。