復讐譚ではなく 森鷗外「山椒大夫」 【読書感想文】
「山椒大夫」は1915年1月に発表された短編小説で、父親を訪ねる旅の途中で人買いに騙されて売られてしまう家族をめぐる物語です。佐渡に売られた母親と丹後の山椒大夫に売られた安寿と厨子王の姉弟。厨子王は山椒大夫のもとから逃げ出して親切な人に助けられ、後に母親とも再会するのですが、安寿は弟の逃亡を助けるために自ら死を選んだ‥というのがあらすじ。森鷗外の小説の中でも、高校の教科書に載ることが多い「舞姫」と並んで最も有名なのではないでしょうか。
私自身、この小説を小学生の時に何度か読んだ筈です。というのも、当時「山椒大夫」は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」や太宰治の「走れメロス」と並んで中学入試の必読書だったからです。ところが、今回青空文庫で「山椒大夫」を読んでみて、いくつかのエピソードを間違って記憶していたことがわかりました。もっと残酷な話だと思っていたのです。それで、記憶を辿ってみたところ、鷗外の小説を買ってもらう前に、幼児向けの「あんじゅとずしおう」という絵本を読んでいたのを思い出しました。確か隣人が子どもの頃に読んでいた絵本を譲ってもらったのですが、その本が鷗外も参照した中世の伝説に基づいていたのでしょう(こんな残酷な話を幼児向けの絵本にするなんて、大らかな時代だ‥)。
森鷗外は、随筆「歴史其儘と歴史離れ」の中で、「山椒大夫」は歴史離れした作品だと書いているのですが、歴史離れした例として挙げられているのは、作中の年代や逗子王の年齢と先祖、山椒大夫の息子の人数といった、ストーリーにあまり関係ない部分ばかり。私が混同していた部分を変更した理由は書いていません。ただ、小説のもとになった伝説の概要は記しているので、それに基づいて、伝説と小説の相違点をまとめると。
① 伝説では逃亡を図った安寿と厨子王の姉弟が額に焼印を押されるが、小説では弟妹が同時に見た夢の中の出来事になっている。
② 伝説では弟を逃がした安寿が拷問に遭い責め殺されるが、小説では自ら沼に身を投げる(小説と同じ設定の伝説もあるようです)。
③ 伝説では丹後の国司になった厨子王が自分達を過酷に扱った山椒大夫と三男を竹の鋸でひき殺させるが、小説では助命。
④ 小説では厨子王が人の売買を禁止したために山椒大夫が奴隷を解放し、給料を払うことになる。その結果、かえって農業や工業が盛んになり、一族は富栄えた。
鷗外版の特徴は、残酷描写を減らしたことと、姉の安寿の存在感を増したことだと思います。安寿の存在感については、次回「最後の一句」を取り上げる際に一緒に書きたいと思います。「最後の一句」には安寿と似たタイプの娘が登場するので。
今回は、残酷描写を減らしたことについて書きます。記憶にあった残酷な話と鷗外の「山椒大夫」を比べると、私には「山椒大夫」の方がしっくりきました(人買いをやめた山椒太夫一家が繁栄したというオチは、さすがにやり過ぎのような気もしますが。奴隷制度は経済面でも不合理な制度だと読者を啓蒙したかったのでしょうね)。
別に、残酷な話が苦手というわけではありません。若い頃に自分を虐待した者に(両親や教師、施設の職員等)復讐するという話は、ミステリ小説にはよくある設定です。でも、そうした小説は大抵「怪物と戦う者は、その過程で自らが怪物とならぬように気を付けよ。お前が深淵を覗く時には、深淵もまたお前を覗き込んでいるのだ」というニーチェの言葉を思い起こさせる筋になっています。たとえどんなに残酷な相手でも、同じ残酷さで相手に立ち向かえば、立ち向かった者も闇に堕ちてしまう。そう思わせる筋です。稀に復讐を遂げた後に幸せを掴む人もいますが、読者がその人に共感するためには深い描写が必要でしょう。「山椒大夫」のような短編で、復讐鬼になった逗子王に読者が共感するのは、かなり難しいのではないでしょうか。
小説の構成上も、逗子王の復讐に筆を費やすと、鷗外が最も書きたかったに違いない安寿の像がぼやけてしまう気がします。
もちろん、山椒大夫の伝達を語り継いだ人達にとっては、厨子王の残虐性と家族愛は併立するものだったのでしょうね。彼らの日常が容赦なく残酷なものだったからだと想像もつきます。そのことを念頭に置きつつ、森鷗外が生み出した、ある家族の物語を楽しみたいと思いました。
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