美禰子=サマー? 夏目漱石『三四郎』 【読書感想文】
「三四郎」って何なん?
大学生の時、語学のクラスで一緒だった子が「『三四郎』って、何なん? 何も起こらないまま、さらっと終わっちゃうよね」と話していました。退屈な小説と言いたいようでした。
個人的に、小説でも映画でも、バディもの(男二人のやり取りが楽しめるもの)が大好きです。
『三四郎』でも、呑気な三四郎とおっちょこちょいの与次郎の会話シーンやこの二人に広田先生と野々宮さんが加わるシーンを楽しく読みました。
とはいえ、「『三四郎』って何なん?」と言いたくなるのもわかります。この作品の男同士の青春小説部分は面白いけれど、三四郎とヒロイン・美禰子の関係を描く恋愛小説部分があまりしっくりこないので。
この小説を初めて読んだ時から、三四郎と美禰子の関係は「野々宮さんを好きな美禰子が、三四郎をダシにして、野々宮さんの気を引こうとするが失敗。他の男と結婚する」ということなのだろうと考えていました。
ところが、ネットの時代になり、「三四郎と美禰子は両思いだったが、三四郎の鈍さ等が原因で、美禰子は他の男と結婚してしまう」という解釈があると知りました。
もちろん、小説だから、どう読んでもいいのですが。例えば、今読んでいる村上春樹さんの小説も、人によって読み方がかなり違うような気がします。そんな風に書けるのが村上さんの凄さだとも思うのですが、『三四郎』の場合は、漱石の凄さ…ではなく、むしろ、作者が美禰子という女性を書き切れていないために、正反対の意見が出てくるのではないかという気がしました。
謎の女・美禰子
この小説のヒロイン、美禰子は謎の女だと思いませんか。ミステリアスとかファム・ファタール(魔性の女)という意味ではなく、あまりにも曖昧模糊としている気がするんですよね。英語やキリスト教にも詳しい才女で、話す相手に合わせた、気の利いた会話ができる女性でもあるのですが、三四郎への態度(特に野々宮がそばにいる時の)は思わせぶりで、だからといってコケティッシュ(媚態)というわけではなく、妙に不自然で人工的。三四郎は田舎から出てきたばかりだから、美しい才女に参ってしまったのかもしれませんが、他の男性は美禰子をどう考えていたのでしょう。
(500)日のサマー
2009年公開の映画《(500)日のサマー》を鑑賞し終えた後、「これって、『三四郎』と同じ構図だな」と考えて、ネットで調べてみたんですね。すると、二人ほど、同じことを書いている人がいました。この作品は、若い二人の出会いから別れまでを描く恋愛映画なのですが、普通の映画とは違い、第三者的・説明的な視点が一切なく、最初から最後まで主人公のトムの視点で描かれています。トムはサマーに夢中だけれど、彼女を全く理解できていない。だから、私達にはサマーの言動が突拍子もなく見えるのです。
『三四郎』も、初心で女慣れしていない三四郎の視点で描かれているので、彼の理解を超える美禰子という女が謎の存在に見えてしまうのかもしれません。
とはいえ、《(500)日のサマー》が一応成功しているのは、キュートだけど女心がわからなそうなジョセフ・ゴードン=レヴィットと、見るからに不思議そうな雰囲気を醸し出しているズーイー・デシャネル、二人の俳優さんの存在感のおかげだと思うのです。文字だけで勝負しなければならない『三四郎』は、ちょっと厳しい気がします。
平塚らいてう
美禰子のモデルは、「原始、女性は太陽であった」という言葉で知られる平塚らいてうです。漱石の弟子の森田草平がらいてうと心中未遂事件を起こした後で、その事件をもとにした小説を書いたのですが、漱石は、その小説や小説中のらいてうの描写が気に入らず、自分でらいてうをモデルにした女性を書く気になったようです。その時に、らいてうを指して言った「無意識の偽善者」という言葉も有名です。
でも、美禰子って、無意識の偽善者どころか、自意識過剰な女にしか思えないんですよね…。
実は、大学生の時、平塚らいてうをテーマに卒論を書こうと思って、本になっていない評論などもかなり読み込みました。結局、やめたのは、らいてうが理論家というよりは、感覚的に動くカリスマで、論文にまとめるのが難しかったためです。感覚的、衝動的、情熱的…。今なら、スピリチュアルとか、天然といった言葉で語られたかもしれません。らいてうについて書かれた本も読みましたが、美禰子のような人工的、思わせぶりな雰囲気は全くなさそうでした。
逆に、感情のままに、天衣無縫に行動するので、天然系の明るいファム・ファタールのモデルにこそふさわしい方だったように思えます。
個人的な意見ですが、らいてうのようなモデルがいながら、美禰子というあまり魅力的でないヒロインが生み出されたのは残念です。
ヒロインの存在感が薄い『それから』や『門』の方が恋愛小説として成功している気がするのは私だけでしょうか。