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気になる青空文庫 明治篇

 青空文庫の作品、特に印象に残ったものは個別に感想文を書き、それ以外は毎月の読書記録に含めようと考えていたのですが、個別の感想文がなかなか進まない…。半年以上経つのに、二葉亭四迷『浮雲』・樋口一葉の短編・尾崎紅葉『金色夜叉』・国木田独歩『武蔵野』しか書けていません。
 このままだと、内容を忘れていく一方なので、特に印象に残った作品をまとめて紹介したいと思います。
 谷崎潤一郎と芥川龍之介だけは、私の中で別格の存在なので、また改めて書くつもりですが(いつになることやら)。

泉鏡花『高野聖』

 フォローしている「没落坊ちゃんの生活」さんがかなり前に鏡花の『外科室』の感想文を書いていらして、なかなか面白そうなので、何か読んでみたくなりました。
 その後、本屋で待ち合わせをしていた時に小谷野敦さんの新書『こころは本当に名作か』を立ち読みしたところ、『草迷宮』と『歌行燈』が名作だと書いてあったので、まずその二作を読んでみました。
 ところが…。文語体が難しすぎて。擬古文の『金色夜叉』や一葉が何とかなったので、鏡花も大丈夫だろうと思ったのですが甘かった。
 鏡花の二作は、一人称で、途中で会った人たちが長々と語り出す(いわゆる枠物語)、話も過去と現在を行き来するという具合に、非常に凝った作りなんですね。小谷野さんのような研究者には、そこが魅力なのだろうとわかるのですが、私の場合、読んで話を筋を理解することで脳を使い切ってしまい、背後にあるものを味わう余裕がない。残念。
 でも、しばらくして「そういえば、昔習った文学史では、鏡花の代表作は『高野聖』だった」と思い出して、それを読んでみることにしました。
 『高野聖』は先に読んだ二作品に比べると、とても読みやすかったです。幻想的で美しく、そうかと思えば、すごくリアルで不気味なところや恐ろしい部分もあり、全部引っくるめて、不思議な世界観に魅入られてしまいました。
 ストーリーやキャラクター重視の私でさえ、魅入られたほどですから、小説の雰囲気を大事になさる方には必読の作品だと思います。
 現代語訳もあるようですが、『高野聖』は何とか読める範囲だと思うので、文語で読むのをおすすめします。口語では文章の美しさが消えてしまいそう。雰囲気も、ストーリーも、口語でサクサク読むのはもったいないです。


徳冨蘆花『不如帰ほととぎす

 戦前のベストセラー小説で、20回も映画化されています。日本文学の難病ものは、この作品に始まるのではないでしょうか。
 個人的に、難病ものが苦手です。残酷なミステリーやホラーは平気で読むのに…。

 苦手なジャンルなのに、この小説を読んだのは、社会主義者12人が死刑になった幸徳事件(大逆事件)の際に、作者の徳冨蘆花が死刑を止めようと、首相に嘆願したり、反対演説を行ったりしたと知ったためです。
 幸徳事件、事件に関係した四人も未遂段階なので(当時の刑法でも)死刑には値しない可能性がありますが、四人以外の幸徳秋水たちは完全な冤罪でした。
 社会主義者だから、この機会に一緒に殺しておこうという。
 森鷗外の記事でも書きましたが、森鷗外は、社会主義自体は嫌っていたものの、思想で人を殺してはいけないと考え、いくつかの寓話を書きます。陸軍の官僚だった鷗外にはそれが精一杯でした。
 鷗外の弟子、永井荷風は、何もできない自分を情けなく思い、自分は現代社会と向き合う文学者ではないと書き残します。
 石川啄木は、社会主義に好意的だったこともあり、裁判結果への反論文を書きますが、新聞には載せてもらえませんでした。 
 その他の作家は沈黙するのみ。
 思想で罰せられるというのは、普通の人たちより、作家にとって恐ろしいことのはずなのですが。表現の自由を奪われてしまうわけですから。実際、戦時中は谷崎潤一郎や徳田秋声といった政治色が全くない作家でさえ、小説を発表することができなくなりました。
 そんな中、一人行動を起こした徳冨蘆花は勇気のある方だと思います。蘆花も、社会主義は嫌っていたのですが、トルストイの影響で平和主義を信奉していたので、声を上げずにはいられなかったようです。
 別に殺されたりはしない今でも人と違う意見を表明するのは難しいのに、徳冨蘆花は、明治時代に政府の方針に反対したのです。

 『不如帰』は、会話部分が口語体、それ以外は文語体で書かれていますが、文語体の部分も平易な言葉が多いので、この時期の小説としては読みやすいです。
 先に書いたように難病ものですが、それ以上に戦前の家制度の残酷さを強く感じさせる話です。愛し合う二人の気持ちより、家の存続や親の判断などが優先される社会。家風に合わないという理由で、女性は実家に戻される。
 戦前の家庭や家族のありかた、家制度などについて学べる作品です。

 また、この小説には一応モデルがいて、ヒロイン・浪子のモデルは伯爵大山巌(西郷隆盛の従弟)の娘ということになっています。作中で、家に戻った浪子を後妻が冷たく扱うために、大山巌夫人は謂れのない中傷に晒されたそうです。彼女は、津田塾創始者の津田梅子などと一緒にアメリカに留学した方なんですね(大河ドラマ『八重の桜』で水原希子さんが演じていた人です)。なので、結核患者には隔離が必要といった科学的な知識がありました。それを虐待だと誤解されてしまったようで。私は大山夫人が好きで、娘時代の彼女が活躍する小説も読んだことがあるので、その意味でも、この小説に興味が持てずにいました。
 小説のモデルになった女性がバッシングされる事態は、自然主義文学などにも引き継がれ、彼女たちの人生を変えてしまうことになります。現実と創作の区別がつかない人は、今以上に多かったんでしょうね。作家の柳美里さんが小説のモデルに裁判を起こされた時、柳さん側に厳しい判決が出たのを覚えていますが、小説が多くの女性の人権を踏みにじってきた過去を知ると、プライバシー権はあれぐらい強く守らなければならないのだと感じます。


伊藤左千夫『野菊の墓』『隣の嫁』『春の潮』

 『野菊の墓』は、千葉県の松戸にある矢切の渡し付近を舞台とする悲恋小説です。繰り返しドラマ化&映画化された人気作ですが(松田聖子の主演作もある)、小学生の時に読んで、「つまらない話だ」と思ったのを覚えています。幼い頃から、殺伐とした性格だったようです。
 でも、同じ文庫に入っていた『隣の嫁』と続編『春の潮』は大好きで、繰り返し読みました。この二作は農村を舞台にした恋愛小説なのですが、農村の風景描写や農作業の描写がいきいきとしていて、作中の村が理想の桃源郷のように感じられました。
 明治・大正期の農村といえば、夏目漱石の『こころ』や佐藤春夫『田園の憂鬱』、宮本百合子『貧しき人々の群れ』でも描かれており、貧困と無知、都会との落差の描写に気が滅入ってしまいます。当時の農村には、確かにそんな一面もあったのだとは思いますが、現・千葉県山武市の農家に生まれた伊藤左千夫は、都会に住む作家が知らない、農村の別の一面を理解していたのでしょう(山武という、都市に近く、生産力の高い地域だからこそ、労働を楽しめるような余裕があったのかもしれませんが)。
 『隣の嫁』という題名からもわかるように、主人公の青年が隣家に嫁いできた新妻を好きになってしまう話なのに、不倫といった暗い印象は全くなく、田園を背景に、若い男女が惹かれ合う様が書かれた恋愛小説の名作だと思います。家父長制や家制度に縛られながらも、それを乗り越えて生きる、たくましい人たちもいたのだとわかって、嬉しくなります。続編共々、短く、小学生でも楽しめた話ですので、気分転換に読んでみて下さい。
 



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